pboyの雑事記

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第5章 平安時代の社会に影響を与えた神仏習合

今までの章で述べた、平安時代神仏習合をまとめると以下のようになる。
日本に仏教が伝来した飛鳥時代には、神道と仏教は未統合であったが、奈良時代を経て平安時代になり、仏教が一般にも浸透し始めると、日本古来の宗教である神道との軋轢が生じ、そこから日本の神々を護法善神とする神仏習合思想が生まれ、寺院の中で仏(本地)の仮の姿である神(権現あるいは垂迹)を祀る神社が営まれるようになった。鎌倉時代室町時代、江戸時代では、武家の守護神である八幡神自体が「八幡大菩薩」と称されるように神仏習合によるものであったため、幕府や地方領主に保護され、祈祷寺として栄えた。
しかし、それゆえに檀家を持たなかったため、明治時代の廃仏毀釈でほとんどの寺院が神社に転向、あるいは消滅するなどし、急速に数を減らした。また、福岡県の梅岳寺のように、領主によって明治以前に改名された寺院もある。現在は、残存した寺院の住職の努力で再興されている。宮寺とその神社の関係は様々で、どちらが主体だったかなど一概には言えない。神祇のための寺院という神宮寺本来の役割を考えれば、神社なしの神宮寺はありえないため、宗教施設としては神社が中心といえる。神社がなければ神宮寺と称する必要はない。逆に寺院のための神社の場合は、鎮守社という。この場合、寺院あっての神社であり、寺院なしの鎮守社はありえないといえる。上賀茂神社のように、神社の従属下に小規模な仏堂がわずかにあり、神宮寺と称した場合もあれば、日光東照宮のように、大社だが、寺院・僧侶がその運営を完全に掌握した場合もある。根来寺のように起源は神宮寺として創建されたものの、神宮寺としての役割はほとんど消滅したと考えられる事例もある。清荒神門戸厄神高尾山薬王院のように、かつては寺院・僧侶がその運営を完全に掌握したが、明治期の神仏分離を経た現在も荒神飯縄権現といった神祇を祀る神社が中心である場合もある。
神仏習合による最初の現象は、この神宮寺の出現である。
神宮寺とは、神威の衰えた神を救い護る為に 神社の傍らにできる寺院である。神威の衰えは、疫病、災害を招くことになる。これは、地方から登場してきたという特色を持っている。 神宮寺の出現の時期は、八世紀(奈良時代)と考えられる。以後、おびただしい数となり神社のあるとこ神宮寺ありといった状態になる。
初期神宮寺創建の特色としては
一. 神の苦悩を、仏力で救い神威を発揮させる。神もまた仏法を悦び歓迎する。
二. 農耕生活の安定(風雨、五穀、疫病)がもたらされる。
三. 神宮寺創建の推進力は、地方豪族である。
四. 神宮寺創建に関係した仏教徒は、山岳修行者であり、呪法の力で神の苦悩を救う。
これは、明らかに仏から神への一方的な接近による習合であった。祝詞を読むことはもちろん、各地に神宮寺ができると神の前でお経を読む「神前読経」が盛んに行われる。神は、読経も喜ぶと考えられてきた。ところが、これとは異なる神宮寺が例外としてある。
例としてあげると宇佐八幡神宮寺(宇佐弥勒寺)と八幡比売神宮寺である。
別当寺とは、神仏習合が行われていた江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺のことである神宮寺の別名でもあるが別当という面で神宮寺の派生でもあると考えられる。別当とは、すなわち「別に当たる」であり、本来の意味は、「別に本職にあるものが他の職をも兼務する」という意味であり、「寺務を司る官職」である。神前読経など神社の祭祀を仏式で行い、その主催者を別当(社僧の長のこと)と呼んだことから、別当の居る寺を別当寺と称した。別当寺は、本地垂迹説により、神社の祭神が仏の権現であるとされた神仏習合の時代に、「神社はすなわち寺である」とされ、神社の境内に僧坊が置かれて渾然一体となっていた。神仏習合の時代から明治維新に至るまでは、神社で最も権力があったのは別当であり、宮司はその下に置かれた。別当寺が置かれた背景には、戸籍制度が始まる以前の日本では、寺院の檀家帳が戸籍の役割を果たしたり、寺社領保有し、通行手形を発行するなど寺院の権勢が今よりも強かったことがあげられる。一つの村に別当寺が置かれると、別当寺が、村内の他のいくつかの神社をも管理した。神仏にかかわらず、一つの宗教施設、信仰のよりどころとして一体のものとして保護したのである。また、神道において、祭神は偶像ではない。神の拠代として、神器を奉ったり、自然の造形物を神に見立てて遥拝しているが、別当寺を置くことにより、神社の祭神を仏の権現(本地仏)とみなして、本地仏に手を合わせることで、神仏ともに崇拝することができた。別当が置かれたからといって、その神社が仏式であったということではない。宮司は神式に則った祭祀を行い、別当本地仏に対して仏式に則った勤行を行っていた。信徒は、神式での祭祀を行う一方で、仏式での勤行も行った。神仏習合の時代には普通に見られた形態である。明治時代の神仏分離令により、神道と仏教は別個の物となり、両者が渾然とした別当寺はなくなっていった。
そして平安時代後期には本地垂迹説が成立する。本地垂迹説とは、日本において仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、神仏の関係を説く思想である。日本の神々は、実は様々な仏の化身として日本に現れた存在であるとする考えである。本地垂迹は、本来天台宗において歴史を超越した永遠の釈迦と実在の釈迦を区別するために用いられた語であり、 現実世界の釈迦は、本地たる仏陀垂迹とするものであるが、 本地垂迹説は、これを日本の神仏関係に応用したものである。
日本では、仏教公伝により、古墳時代物部氏蘇我氏が対立するなど、仏教と日本古来の神々への信仰との間には隔たりがあった。だが長い時間がたつにつれ、それはなくなり、仏教側の解釈では、神は迷える衆生の一種であると考え、仏自体が積極的に神の世界に侵入して仏の化身という自らを位置付けようとした。この点で決定的に心身離脱や神宮寺化の動きとは異なっていた。仏教が優位にたった上で主導して神祗の世界の全てを融合していこうとする積極的な理論なのだ。これによって仏教は世間にむけて、仏の世界が神祇の世界の上位に立つことに成功したのである。
鎌倉時代中期には、逆に仏が神の権化で、神が主で仏が従うと考える神本仏迹説も現れた。これは別名、反本地垂迹説とも呼ばれている。神道側が仏教から独立しようという考えから起こったものである。南北朝時代から室町時代には、反本地垂迹説がますます主張され、天台宗からもこれに同調する者が現れ、数々の著作をもってこの説を支持した。吉田兼倶は、これらを受けて『唯一神道名法要集』(ゆいいつしんとうみょうほうようしゅう)を著して、この説を大成させた。しかし鎌倉期の新仏教はこれまで通り、本地垂迹説を支持した。