pboyの雑事記

私P boyの興味をもったことが書かれています。

差別語および差別的表現

ピノキオ論争について
障がい者のふりをした猫とキツネは障がい者を表したものではない。
あくまで偽の障がい者障がい者を悪者にしているわけではない。
悪いことをしたせいで本当の障がい者になってしまったというのも
障がい者をのふりをした罰だとも読み取れる。
同じくらい古い作品である人魚姫は声を失い、歩くのに不自由になったが、
これは問題ないのはどうだろうか。 
・差別語および差別的表現
自主規制は過剰ではないか。必然性や正当性や論理を考えず、
「なんだか危なそうだから」という理由で自主規制や言い換えをしていないか。
これは差別問題に関する無関心が原因ではないか。ただ臭いものに
ふたをしているだけにも思える。「無難な表現にしておけば問題ない」
「人権運動の団体から抗議を受けたくない」という思いが見える。
差別語および差別的表現は表現する側、受け取る側双方の理解によってそうか、
そうじゃないか変わる。言語とは多様なものであって一つの現象、事象を
表現するのに一種類の表現しかできないのはかなり少ないだろう。
差別語、差別的表現か否かは前後の文脈によって決まるのではないだろうか。
出版社やテレビ局には差別語や差別的表現を出さないために
言い換え集という冊子又は本がある。しかしこれらの本の多くは
なぜその表現、言葉がいけないのかは載ってない。
これも差別問題への無関心のあらわれではないか。
さらにこれはどちらだろうかという曖昧な言葉もある。
問題解決には対等な話し合いをしよう
漫画にはある程度のユーモアが必要。そのユーモアが作品の面白さの一つ。
ユーモアと差別の境界は曖昧。
時代背景に合わせて差別語、差別的表現をすることがある。
良いこともあって、社会的に誤解や偏見のある言葉が正しくなった。
「盲」や「狂」がついた言葉がすべて悪いわけではない。
「狂」には一つの事に集中することのような意味がある。物に対して
使うならいいかと。
「盲」はめくらと読まなければいいのでは。例外もあって
「群盲」は盲人の集団ということでダメ。
作者が亡くなって本の改定が不可能な場合は、最初やあとがきに
おことわりを入れるべき。
障がい者は気にするが、健常者は気付かないこともある。
「きちがいに包丁」人は誰だって他人を傷つけることがある
悪い言葉のたとえに障がい者を使ってはいけない。
差別語はただ言い換えればいいわけではない。
差別とは他人を遠ざける(横に)、他人を落とす(縦に)もの。
言い換えをしても差別的な意味をもってしまうこともある。

日本語の特質について

 日本語の特質を2つの点から考察する。
 1つ目は同音異義語である。
日本には多くの同音異義語がある。それらは多いもので40語におよぶものもある。
しかしそれは我々にはなじみが薄い。もっともなじみが深いのは講義にもあがった
「ばかり」だろう。「ばかり」には使い方として以下の使い方がある。
1.太郎ばかりにいいことがある
2.早く行け、とばかりに私はクラクションを鳴らした
3.宿題はまだ半分ばかり残っている
4.この本はまだ買ったばかりだ
5.講義に出なかったばかりに単位を落とした
6.後は寝るばかりだ
7.今行って来たばかりだ
8.彼は頭がいいばかりでなく運動神経もある
これらは当然それぞれ別々の意味を持っている。
日本語の特質の1つがこれら同音異義語の多さである。これらはすべて日常会話で使われ、文字で表さなくても前後の文脈から上記の8種類から正しいい使い方、受け取り方
をする。これらは他の言語と比べても難しいことであろう。ではなぜこんなにも日本語には同音異義語が多いのだろうか。
日本語は文字に対して割り当てる音の組み合わせが少ないため、他の言語とくらべるとどうしても同音異義語が多く発生してしまう。
かつては変体かななど、現代では使われない字も多くかったが明治時代に始まる教育の効率化により現代に近く発音が単純化されていった結果、同音異義語が多く誕生してきたのである。
 2つ目は日本語の変化を考察する。
日本は島国であり、さまざまな文化が海の向こうからやってきた。それらは古代から現代まで続いてきており、やってきた文化の中にその国の言語が含まれていたであろう。やってきた言語は長い時間がかかりはしただろうが一部は日本に根付こうとした。そして長い歴史の中で新しい言葉と古来からあった言葉は変化し混ざり日本語調になって行き、現代人は日本古来の言葉と思っている言葉ができる。例を挙げれば「天麩羅」という言葉が当てはまる。「天麩羅」はポルトガル語のtemperer(テンペラ)が変化し当て字になったものである。外国語を変化させ当て字にするのは江戸幕府鎖国政策をしていたことが関係ある。
これは日本の封建制と相性の悪かったキリスト教を締め出し、他国に侵略を繰り返していたヨーロッパの強国から自国を守るための政策である。
その鎖国政策により200年以上平和な状態が続いた日本では、文化はきわめて進歩し、
それでいて独特になった。平和になり日本の識字率はおおいに上がった。字を書く人が増えれば、俳句や短歌など言葉遊びをする人も増える。言葉遊びをする人が増えれば、新しい日本語も作られ、一部の言葉が流行り、廃れ、復活する。このようにして日本語は外から取り入れ、進化させ、自分のものにしてきた。これが私の考える日本語の変遷である。
私は日本語の特質は長い時間による変化だと考える。
 以上が私の考える日本語の特質である。

仏教の伝播と定着

まず、仏教が伝来したのは538年というのが学界での通説となっている。
しかし、これはおおやけの事としての伝来ではないだろうか。
当時の高句麗百済からの帰化人が仏教を信仰していて他の人々に広めたのではないか。これが私の考える仏教の伝播である。
そう考えると仏教の伝来はもっと早く、高句麗百済から人が渡ってきたのと同時期に伝来していたかもしれない。
 そして、伝来してきた仏教の定着に一役かったのが聖徳太子ではないかと私は考えた。
聖徳太子は自身も仏教を学び、法隆寺を建築した。
この法隆寺は、仏教を定着させるための発信基地のような役目を持っていたと私は考えた。
法隆寺が建設されたことによって現在まで仏教が続いてきたという考え方もできる。
仏教の定着には社会的、政治的な思惑があったにせよ、仏教の一部ともいえる寺院の建築技術などを日本人が身に着けることができた。
建築には道具が必要でそれらを作る技術は農具や武器を作る技術に応用できる。仏道には壁画が描かれ、礼拝には音楽や舞踏が付随する。
 さらに仏教の定着には道徳意識の定着もあったのだろう。仏を拝むことで祖先を祭ることをしただろう。
私個人の考えでは仏教の定着とは、仏教を信仰する人が全体の7割以上であり、日常生活の中で仏教の話をしても問題がないことだと
考えている。
 しかし、その点で考えると江戸時代に出された檀家制度には問題があったといえる。檀家制度によって定着自体はしたが、
一家一宗という厳しさや幕府にキリシタン排斥のために利用され、
生活を保護されたために修行や布教をおろそかにしてしまった僧たちに対する反感は強かっただろう。
しかし幕府は、故意に僧が修行や布教をおろそかにさせたのではないだろうか。
仏教が定着しすぎれば仏教徒という大きな勢力になるのを幕府は恐れたのかもしれない。

臨済宗の禅

仏教の中には禅宗、といわれている一派がある。ここでいう臨済宗とはこの禅宗に含まれる。ここではその臨済宗について考察したい。
 まず臨済宗から大きくさかのぼり、仏教の始まりから簡単にから考察しよう。仏教は承知の通り、釈尊が教え広めた。釈尊の入滅後に、結集、部派分裂等を経て、大乗仏教上座部仏教、さらにもっと多くの部派に分かれていった。その後にインド仏教の崩壊という事態になる。原因に関しては諸説あるが、一番の要因としてはその時代に戦争があった。僧侶は争うことをせず、ほかの地へと行く。残された民衆は、他の宗教へ変わっていった。というのが大きな要因ではないかと考える。
 本題の禅宗に話を戻す。禅宗とは菩提達磨大師がインドから中国へ布教に来た際に広まった。だるま大師ともよばれだるまさんのモデルにもなった人である。
達磨大師の影響は大きく、中国禅宗では達磨大師の教えは代々受け継がれていき、六祖慧能まで伝わった。受け継がれたものの一つに面壁九年の座禅に表される、
「壁になって見る」つまり壁のように動かず、心を動せず、その境地にて真理を観ずる禅のことである。これは後の確立された中国禅宗の中で、六祖慧能の言葉といわれている座禅の定義である。
面壁九年の座禅による足の衰えにより達磨大師の足が腐ってしまったという伝説がある。玩具のだるまはこの伝説を元にしたため足がない。
さらに中国禅宗と日本禅宗臨済宗曹洞宗、潙仰宗、雲門宗法眼宗楊岐派黄龍派の五家七宗に影響を与えた。
 中国に伝わった禅宗からまた別の禅宗が生まれることもある。ある人は経論を学んでいたが足りず、中国禅の黄檗宗の開祖黄檗希運禅師に弟子入りした。
その人こそ後の臨斉義玄禅師である。
臨在禅師は臨在録にあるように、黄檗禅師に三度打ち据えられ、それを解くために大愚禅師の元に行き、大愚禅師の一押しにより悟った。そして臨済宗の始まりとなる臨在寺に住み多くの弟子を育て、北地で大きな勢力となった。これが臨済宗の始まりである。その宗風は場祖道一禅師を祖とする禅を進めた。これにより中国禅宗の頂点にもなった。臨在禅師は大声で「喝」と発する厳しい人物だったという。
さらに中国に伝わった禅宗は達磨以来の純粋に禅を貫いた臨済宗曹洞宗によってさらに禅は発展していった。しかし時代が進むとチベット仏教が国教となり、純粋禅の多くが来日してきた。その中でも有名な人物といえば、日本に臨済宗を伝えた栄西禅師であろう。彼は日本臨済宗の開祖であり、天台宗葉上流の流祖である。さらに当時は廃れていた喫茶の習慣を、種子や苗木を持ち帰ることで復活させた。
当初、日本の臨済宗は、新しい宗教ということで京都では布教はできなかったので鎌倉幕府源頼朝など主に武家を相手に布教をした。時間が経つにつれ、臨済宗は受け入れられていき、鎌倉時代の中期には、多くの高名な僧が来日し、鎌倉に大きな寺院が多数建てられた。このころには、徐々に「禅」が馴染みだした時代だ。室町時代になると、禅宗武家や幕府だけに留まらず、朝廷にも受け入れられました。禅宗が、枯山水などの庭園文化を朝廷に対して影響を与え、権力者と結びついた。しかし、その中でも禅の教えを守り、修業を続ける宗派もあった。現在残っている臨済宗妙心寺派、建長寺派円覚寺派南禅寺派方広寺派、永源寺派、佛通寺派、東福寺派相国寺派建仁寺派天龍寺派、交獄寺派、大徳寺派、國奏寺派の14派がその流れをくんでいる。
 江戸時代に入ると、臨済宗には一大事があった。キリスト教を禁止していた江戸幕府は、臨済宗を手厚く保護した。幕府の保護と前述の朝廷との結びつきにより修業をせず、布教もしない僧が増え始めた。
そんな中、臨済宗を立て直そうと、主に二人の僧がいた。盤珪永琢禅師と
白隠慧鶴禅師だ。特に白隠禅師は臨済宗の中興の祖といわれるほどであった。
現在の臨済宗のほとんどの宗派は白隠禅師の流れをくんでいる。だから臨済宗の中興の祖といわえている。
二人は分かりやすい言葉を使い、人々に禅を広めた。
 では白隠禅師の流れの禅とは何か。私は公案に参究することで見性する看話禅だと考える。この看話禅とは唐の時代にはなく、白隠禅師独自の考えである。これは師から与えられた公案を一つ一つ解くことを重視し、悟りに至ろうとするものである。しかし、曹洞宗からは、座禅を軽視しているため、臨済宗の陥りやすい間違いといわれている。
看話禅に対立する言葉として曹洞宗の黙照禅がある。
これは、座禅の要は全ての思慮分別をなくし、一心に座禅することで人の持つ仏性を得られるとするものである。ただ座るだけの中身のないものと批判されることもあった。日本においてもその批判はあったが長くは続かず、曹洞宗の禅風を表す言葉となった。
以上が私なりの臨済宗の考察である。勉強不足が目立つが、これが今の私の考えである。

顕在的機能と潜在的機能

私の身近な社会現象を顕在的機能と潜在的機能を例に説明する。
 まず、潜在的機能と顕在的機能とはなんだろうか。
潜在的機能とは、ある物事に対して意図、予想をされていないような結果のことである。
顕在的機能とは、物事に対して意図、予想をしていたとおりの結果である。
これらにはもう一つ特別なとらえ方がある。事後的という考えである。
物事が起こった後であっても、存在を認められないものが潜在的機能、存在を認められないものが顕在的機能とされる。
顕在的逆機能は行為に対し予想に反した結果が起こることである。
潜在的順機能は行為に対し意図されていない良い結果が起こることである。
行動をしたがその行動は実を結ばなかった(顕在的逆機能)。しかしながら、まったくの無駄というわけではなかった(潜在的順機能)。比べると潜在的順機能の効果のほうが大きいため、その行動は続けられる。
以上が顕在的機能と潜在的機能とその派生である。
 私が考える身近な社会現象とは「流行」である。
例えばある曲が流行りだし、繁華街や喫茶店などでその曲が流され、CDなどが大いに売れ、写真週刊誌や芸能雑誌などがこぞってその曲の歌手の記事を取り上げ、テレビにも頻繁に登場するような状況は社会現象といえる。
これを顕在的機能を元としてとらえると、曲を売りだすからには普通はその曲の歌手が流行ることを目的としている。その結果曲が流行り、歌手が売れ、その歌手のCDが売れる。これはその曲と歌手を流行らせる際に意図、予想をしていたとおりの結果であるので顕在的効果である。
 ではこの場合の潜在的効果とは何であろうか。
曲と歌手を売り出し、その曲と歌手を流行らせる際に意図、予想をされていないような結果とはなんだろうか。
この曲と歌手を流行らせようとしている場合、その曲が使われたアニメやドラマの人気の向上が上げられる。そのアニメやドラマの人気が上がると、それらを見たがる人が増え、インターネット上の違法アップロードが増えるのではなかろうか。
さらにyoutubeなどを通してその曲に対する

異常に低い評価、中傷をする人もいるだろう。
曲への評価がひと段落したら彼らの中傷の矛先はその曲の歌手へと向くだろう。
当然ながらその曲の歌手にも異常に低い評価、中傷をするだろう。
しかし今度は顔の見えない人間を攻撃するため、中傷する人たちも中傷に熱が入るだろう。
歌詞やテンポ、歌い方などの曲への中傷はやがて歌手の容姿や性別、年齢などの中傷へと進んでいくだろう。
中傷まで行かなくても、その歌手のコンサートやライブで熱狂しすぎたファンの迷惑行為のせいで回りまわってその歌手が非難されることもあるだろう。
当然、これらは歌手本人のせいではなく、中傷する人、迷惑行為をする人が悪いので
会社は曲や歌手を売り出し続ける。
以上が私の考える身近な社会現象の潜在的機能と顕在的機能である。

和歌山毒物カレー事件における捜査過程と裁判過程の問題点

日本における捜査と裁判の過程には多くの問題点がある。
その問題点を歌山毒物カレー事件を例に挙げて論じる。 
 まずは事件の概要を説明したい。1998年の7月に和歌山市の新興住宅地の
自治会が主催した夏祭りで、住民が作ったカレーライスに猛毒のヒ素が混入された。
これを食べた4人が死亡した。当時、現場近くに住む林麻須美の周囲で不審な
ヒ素中毒現象が多発し、多額の保険金をその女性が受け取っていたことが判明した。和歌山県警は保険金詐欺容疑で強制捜査に乗り出し、1998年の12月に
カレー事件について殺人などの罪で林麻須美を逮捕した。本人の供述を含め、
犯行と林麻須美を直接結びつける証拠がないため、検察は祭り当日の住民の
動きを詳細に再現するなど、状況証拠を積み重ねた。他に犯人がいないことを
和歌山県警は立証した。
林麻須美は当初黙秘を続け、弁護側も無罪を主張したが、2002年の12月に
死刑判決を受けた。
 捜査の過程での問題で目立つのが自白なし、犯行時の目撃がないということで物的証拠がないということである。これにより和歌山県警は状況証拠から犯人を逆算していくことになった。
捜査により林麻須美は近所から疎まれていたということも動機という状況証拠の一つである。
状況証拠は確かに大きな手がかりではあるがそれだけでは足りない。
状況証拠だけを積み重ねても確証がなければ逮捕はしてはいけないのではないだろうか。
その状況証拠にも疑問を持つ点がある。女子高生MHによる証言である。
彼女の証言は時間がたつごとに変化していく。これは警察官による誘導があったのではないだろうか。
仮に誘導がなかったにせよ、確たる証拠がないにもかかわらず逮捕が行われている。
逮捕された後の裁判の過程でも問題はある。
二審における裁判官の評価には「これまで誠実に事実を語ったことのない被告が突然真相を吐露し始めたなどとは到底思えない」とある。
この言葉は裁判の公平性を欠いている。
被告が取調べ中に黙秘権を行使していた。これは自身の不利になることは言わなくてよいと認められている権利であり、そのことを理由に不利な判決を出すのは間違っている。
 以上が私の考える捜査、裁判過程の問題点である。
問題点は過程にあるのではなく、その過程を行っている捜査官と裁判官にあるというのが私の考えである。

南宗と北宗の違い

今回は南宗禅と北宗禅の違いを荷沢神会の主張を参考に論述する。
 まずは南宗禅と北宗禅の大まかな違いから述べよう。
南宗には頓悟といって、たちまち悟るということがある。南宗禅の特徴は頓悟にあるとされ、自性を悟れば頓に成仏できるという教えである。例を挙げると臨済宗公案をもって悟る、ということである。
それに対して北宗は、悟るために修行をしていく、というものである。北宗禅の特徴は漸悟であり、段階的な修道を説くとされる。北宗の例は釈尊の明けの明星をもって悟ったということであろう。釈尊は樹の下で長い時間をかけて悟った。
二つの派はそれぞれ、南宗禅は速疾一念、北宗禅は漸次修行を禅修行の特徴とした。これらをあわせて「南頓北漸」と称されている。
 そして、この二宗の祖とされる神秀と慧能はどちらも五祖弘忍の弟子である。
ある日、弘忍は門人達に各自の悟境を詩にして提出するように言った。その詩が弘忍の意にかなえば、作者に達磨の袈裟と法を継承させると言うのだ。この提案を受けて神秀だけが詩を作って寺の廊下の壁に夜中書きつけた。
しかし、この詩は弘忍の意にかなわなかった。
ある僧からこの話を聞いた慧能は神秀の詩を読んで貰い、神秀の悟境が低いことが分かった。彼は自分で作った詩を神秀の詩の隣に書いて貰った。
弘忍は慧能の悟りの境地が高いことを知って深夜に慧能を室内に呼んだ。
弘忍は「金剛経」を説いて聞かせたところ、慧能は一聞して開悟したと伝えられる。そこで弘忍は慧能を高弟の神秀をさしおいて六祖にしたとされる。
この慧能に荷沢神会という弟子がいた。彼は慧能の没後次ぎのような主張を始めた。
禅宗の六祖は自分の師である慧能であり神秀ではない。従って神秀の弟子の普寂は第七祖ではない。 北宗は達磨禅の派生であり、禅の正統は慧能系の南宗である。」
神会のこの主張の背景には中央で活躍する神秀の系統の北宗に対する反感があったと考える。神会は慧能の南宗禅の主張を定着させ、自分が慧能を後継する第七祖になりたかったからだと考えられている。
 神会はこの北宗に対する攻撃を滑台での宗論において始めたと考えられている。神会はこの宗論で崇遠法師を論争相手に北宗批判の立場を明らかにした。
この宗論は「菩提達磨南宗定是非論」に記録されている。
慧能の弟子達に優秀な禅僧が輩出したため、結果的には神会の主張と宣伝は成功し、南宗は北宗を圧倒した。歴史的には慧能の南宗が禅宗の主流になったため、今では慧能が南宗禅の創始者と考えられ六祖慧能と呼ばれている。
 なぜ南宗禅が主流になったのか。
私が考えるにそれは南宗禅独特のたちまち悟ることができる、という点にあると考えた。
早く悟ることができるということはそれだけで評判がいいだろう。
それに対して北宗は、悟るために修行をしていく、というものである。段階的な修道を説いている北宗は時間がかかる、めんどくさいといったイメージを持たれ弟子が増えにくかったのではないだろうか。
 論述等が不十分だがこれが私なりの南宗と北宗の違いである。