pboyの雑事記

私P boyの興味をもったことが書かれています。

第四章 本地垂迹説の成立

第四章が中世の話になっているが平安期の問題とどう関連するかを明確にしておく。
平安時代後期の十一世紀から十七世紀初めの江戸幕府の確立までが中世に入る。平安時代神仏習合となると歴史の流れという面から本地垂迹をこの章でまとめる事は必要だと考えた。本地垂迹説の始まりは、日本において仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、神仏の関係を説く思想である。日本の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現であるとする考えである。本地垂迹は、本来天台宗において『法華経』の「如来寿量品」(にょらいじゅりょうほん)における久遠実成(くおんじつじょう)の釈迦(歴史を超越した永遠の釈迦)と 始成正覚(しじょうしょうがく)の釈迦(歴史的実在としての釈迦)を区別するために用いられた語であり、 現実世界の釈迦は、本地たる仏陀垂迹とするものであるが、 本地垂迹説は、これを日本の神仏関係に応用したものである。本地とは、本来の境地やあり方のことで、垂迹とは、迹(あと)を垂れるという意味で、神仏が現れることを言う。究極の本地は、宇宙の真理そのものである法身であるとし、これを本地法身という。神は仏の垂迹衆生を救済するためこの世に現れること。垂迹神)、仏は神の本地(本来のあり方、本体、本地仏)であり、 両者は究極的には同体不可分の関係として捉えられたものである。
日本では、仏教公伝により、古墳時代物部氏蘇我氏が対立するなど、仏教と日本古来の神々への信仰との間には隔たりがあった。だが徐々にそれはなくなり、仏教側の解釈では、神は迷える衆生の一種で天部の神々と同じとし、神を仏の境涯に引き上げようと納経や度僧が行われたり、仏法の功徳を廻向されて神の身を離脱することが神託に謳われたりした。
しかし七世紀後半の天武期での天皇中心の国家体制整備に伴い、天皇氏神であった天照大神を頂点として、国造りに重用された神々が民族神へと高められた。仏教側もその神々に敬意を表して格付けを上げ、仏の説いた法を味わって仏法を守護する護法善神の仲間という解釈により、奈良時代の末期から平安時代にわたって、神に菩薩号をつけた。
日本において、神仏の関係を表すために本地垂迹説が唱えられたのは、 貞観元年(八五九)賀茂・春日両社に天台宗年分度者を申請する延暦寺僧恵亮の上表文である。 ここに「大士垂迹、或王或神」という文言があり、神祗に関して「垂迹」という語がはじめて使用され、 平安時代中期には本地垂迹説が確立されたと考えられている。
熊野権現白山権現など『権現』の神号も「仏が権(かり)に神として現ずる」の意であり、 本地垂迹説に基づく神号として十世紀前半には出現している。
平安末期には伊勢の本地が大日如来、白山の本地が十一面観音など、神社の個別の祭神の本地に具体的な仏菩薩が充当されるようになった。
王権国家完成までの仏教と神祇信仰をめぐる動きは、神宮寺のもとでの在来の神祇信仰の存続とその上に仏教に対抗して築かれたケガレ忌避観念などに示されているように、仏教が神祇信仰のすべてを飲み込んで消し去り、神々がすべて仏に仕えるという道を歩んだわけではなかった。むしろ仏教の助けを借りて神祇信仰の考えかたの共通化が進められた歴史であったといってもよい。そしてその延長上に『往生要集』が誕生した。
しかし、『往生要集』(おうじょうようしゅう)の目的はあくまで浄土信仰の本質を理解するための道を提示することにあり、そのためにケガレ忌避観念を最大限に活用したのである。いいかえれば、神祇信仰の核心をなす部分を、仏教理解の手段として徹底的に利用しようとするものであった。その延長線上に全面展開したのが、本地垂迹と『中世日本紀』である。その意味では、『往生要集』は本地垂迹と『中世日本紀』を引き出す出発点であり、またはその源泉になったということができよう。本地垂迹と『中世日本紀』は、どちらも仏教の主導による神祇信仰の抱きこみを示すものであり、神仏習合が新しい段階に入ったことを告げるものであった。そして、これは神仏習合の最終到達地点ともいえよう。ではその内実とはなにか。以下で歴史の流れを見ながら考えていく。
本地垂迹の始まりは心身離脱、そして神宮寺創建という日本の神仏習合の出発点までさかのぼる。日本在来の神々が仏教に帰依し、神の姿を残したままでその世界に入ろうとする運動なくして、これを仏教の世界から逆方向に位置付け直そうとする本地垂迹など登場するはずがない。
というわけで本地垂迹は神の側から仏に近づくのではなく仏自体が積極的に神の世界に侵入して仏の化身という自らを位置付けるというものである。この点で決定的に心身離脱や神宮寺化の動きとは異なっていた。仏教が優位にたった上で主導して神祗の世界の全てを融合していこうとする積極的な理論なのだ。そして十世紀末の『往生要集』に集約される日本浄土教の達成感こそは密教を中心とする仏教界に本地垂迹を出現させることを可能にした。これは大きな土台であった。密教に支えられた神宮寺建立や怨霊思想を踏まえ、その対極に王権の中で成長してきた神祇信仰を支えるケガレ忌避感の絶対化を意識しながら、その成果を土台として罪と贖罪と極楽往生を説いたものだったからである。
これによって仏教界は王権と世俗世界にむけて、仏の世界が神祇の世界の上位に立つことを最終的、決定的に論理化することに成功したのである。
こうして十一世紀に入るころから、本地垂迹の母体となるような仏教界の動きが顕在化する。
石清水八幡宮に伝わる一文書によれば、丹波国氷上郡内のある村の人々は早魃と疫病に苦しみ、救いを土地の神々に求めたところ、一〇二三年(治安三年)、次のような八幡台菩薩の託宣が下った。

われは是れ八幡にして、別宮に垂迹せり。しかるに住民その勤めをなさぬにより、われ、この禍難を致すところあり(注25)。

同文書は、これにしばらく先立つころに八幡がこの地に別宮を建てて垂迹したと述べているが、これはこの地での八幡の存在を主張するための虚構の可能性がある。むしろ重要なことは、続けてこの託宣に驚いた住人たちが、八幡の住まう神殿を築き、八幡大菩薩の御神像を造って祀ったところ五穀成熟し、郷土安穏となったと記していることである。この背後には、八幡神宮を喧伝する岩清水の僧侶たちの働きかけがあろう。五穀成熟と郷土安穏を願うなら八幡大菩薩をこの土地の神として垂迹させよという論理を八幡の託宣というかたちで述べさせ、人々もまたこれを受け入れて、神殿、神像の建立したことを物語っている。
また十二世紀に成立した『東大寺要録』には、伊勢神宮禰宜延平(ねぎのぶひら)の日記として実に興味深い話がある。
七四二年(天平十四年)、勅使である橘諸兄(たちばなのもろえ)が同神宮寺建立を願っているとの天皇の言葉を伝えたのに対し、しばらく後にアマテラスが示現して、次のような託宣を下したというのだ。

当朝は神国であるから神明を欽仰(きんぎょう)すべきであるが、日輪である我の本地は大日如来、つまり盧舎那仏(るしゃなぶつ)である。衆生はこの理を悟解して、仏教に帰依すべきである。

このような論理の託宣が八世紀に降りようはずはないので、この延平の日記と託宣は『東大寺要録』が編纂される少し前の時代、十一世紀後半ごろ述作されたことは、ほぼ疑いない。それにしても、十一世紀末には、伊勢のアマテラスという王権神話の中核に坐す神までが自ら大日如来の化身として垂迹したことを告げるという言説まで登場するにいたったのである。十一世紀末までに、本地垂迹はここまで成長してきていた。これ以降いわゆる院政時代から鎌倉時代にかけて、全国各地の神社を各々しかるべき諸仏・菩薩の垂迹した化身・権現とみなす運動はいっそう展開していく。平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて、全国各地で各神社の神をそれにふさわしい仏・菩薩の垂迹とみてとりこんでゆくという運動が展開された結果、鎌倉時代までに全国の名のある神社の本地は人々の共通認識へと高まっていく。それはこのころから各地の名社の本地を説明する書物が、さまざまなかたちで作られるようにあるという事実に端的にうかがうことができる。一三二四年(正中元年)、存覚の手で作られた『諸神本懐集』(しょしんほんかいしゅう)はそれをかなり体系的に記しており、これをうけて、まず、熊野権現の本地が次のように記されている。本社の証誠殿(しょうじょうでん)は阿弥陀如来、両所権現のうち、西御前(邦智社)は千手観音、中御前(速玉社)は薬師如来、五所王子(ごしょのおうじ、五所権現)のうち、若王子(にゃくおうじ)は十一面観音、禅師宮(ぜんじのみや)は地蔵菩薩、聖宮(ひじりのみや)は龍樹菩薩、児宮(ちごのみや)は如意輪観音、小守宮は聖観音。熊野末社では、一万宮(いちまんのみや)は文殊菩薩、十万宮(じゅうまんのみや)は普賢菩薩、勧請十五所は釈迦如来、飛行夜叉は不動明王、米持金剛童子(めいじこんごうどうじ)は毘沙門天とする。
続いて、大箱根三所権現については法躰は文殊菩薩、俗躰は弥勒菩薩、女躰は観音菩薩といい、三嶋大明神の本地は薬師如来とする。さらに、八幡宮の三神は阿弥陀如来観音菩薩勢至菩薩日吉社は大宮が釈迦如来、地主権現(ぢしゅごんげん)が薬師如来、聖真子(しょうしんじ)が阿弥陀如来、八王子が千手観音、客人(きゃくにん)が十一面観音、十禅師が地蔵菩薩、三宮が普賢菩薩といった具合である。また、祇園社薬師如来、稲荷社は聖如輪観自在尊、白山は十一面観音、熱田は不動明王であるという。
以上だけでも当時の人々が本地垂迹をいかに深く信じ、全国名社の本地とその効力を知ろうとする旺盛な意欲に満ちていたことが理解できよう。
こうして、本地垂迹鎌倉時代末の十四世紀初頭までに日本全土を覆い、各地の固有の神々を仏に向かわせるだけでなく、神の姿のままでさまざまな験力を持った密教の仏・菩薩・諸天・諸王たちの化身としてしまうというところに行き着いた。
とはいえ、本地垂迹では仏教の側から日本固有の神々のすべてを包摂して化身とするという点で、神宮寺化よりはるかに仏教が上位に立っていた。積極的に仏教の論理で各地の神々のエネルギーのすべてを糾合するという点で、この時代固有の性格を有していたのである。
鎌倉時代中期には、逆に仏が神の権化で、神が主で仏が従うと考える神本仏迹説も現れた。これは別名、反本地垂迹説とも呼ばれている。神道側の仏教から独立しようという考えから起こったものである。伊勢神宮外宮の神官である度会氏(わたらいし)は、神話・神事の整理や再編集により、『神道五部書』を作成、伊勢神道度会神道)の基盤を作った。伊勢神道においては、現実を肯定する本覚思想を持つ天台宗の教義が流用されて神道の理論化が試みられ、さらに空海に化託した数種類の理論書も再編され、度会行忠・家行により体系づけられた。反本地垂迹説は、元寇以後の、日本は神に守られている「神の国」であるとする神国思想のたかまりの中で、ますます発展していった(注26)。南北朝時代から室町時代には、反本地垂迹説がますます主張され、天台宗からもこれに同調する者が現れた。慈遍は『旧事本紀玄義』(くじほんぎげんぎ)や『豊葦原神風和記』(とよあしはらしんぷうわき)を著して神道に改宗し、良遍は『神代巻私見聞』(かみよのまきしけんぶん)や『天地麗気記聞書』(てんちれいききぶんしょ)を著し、この説を支持した。吉田兼倶は、これらを受けて『唯一神道名法要集』(ゆいいつしんとうみょうほうようしゅう)を著して、この説を大成させた。しかし鎌倉期の新仏教はこれまで通り、本地垂迹説を支持した。
神と仏の出会いから本地垂迹に至るまでの古代・中世以降の神仏習合に関する研究は貧弱であるとされている。中世後期の神道界における、反本地垂迹の形成とその位置付けをめぐる研究は一定の進展があるが、近世までを視野に入れて本地垂迹を研究したものではない。そのため現在のほとんどの研究者は、神仏習合が長く社会に定着し、明治維新神仏分離令によって分けられるまで神仏習合が続いたというイメージを持っている。
明治維新より以前においては神と仏が明確な線引きはされていなかった。しかし、その事と中世に完成した本地垂迹がそのまま明治維新まで続いたかは別である。本地垂迹の継承と変容に関した研究は少ないという。今後、そのテーマでの研究が待たれる。