pboyの雑事記

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第三章  平安時代の神仏習合

平安時代とは七百九十四年から千百八十五年までを指す。その平安時代中期には宇佐宮内において出家者・帰依者が存在した。系図史料にあらわれた宇佐宮神職からの最初の出家者は、宇佐氏出身の義海である。宇佐氏は大宮司職にあり、大尾社を創建した池守の家系である。
『到津系図』(とうつけいず)にあらわれるもっとも古い僧であり、天台僧として極位をきわめた人物がいきなり出現する。宗祖伝教大師は唐への渡海に先立ち宇佐宮へ参詣している。その一四〇年後に宇佐出身の僧が天台座主として登りつめたのである。『天台座主記』(てんだいざすき)では「十四世権津師 山本座主 治山六年 豊前国人宇佐氏」と記す。出自が宇佐宮社家であることは、比叡山ではむろん周知のことであった。義海は貞観一二年(八七〇)に大宮司宇の三男として誕生。詳細は不明ながら、おそらく幼年のころから比叡山かいずれかに入寺したとみられるが『天台座主記』は「年七十、﨟四十四」とあるから二十六歳で出家したことになり、一般的な僧の出家年齢からみてやや遅い感もある。『到津系図」(とうつけいず)によると、義海が比叡山で師事したのが玄昭津師で、天台密教の奥義である伝法灌頂を尊意和尚から受け弟子となり、義海の二代前の座主である玄鑑(治山三年)の弟子である。近世の史料であるが『豊鐘善鳴録』(ほうしょうぜんみょうろく)はさらに、大戒を家康から受けた後、南都に出て法相学を究め、比叡山に登ったのは延長四年(九二六)とされ、そのもとで天台密教を学んだ。そして天台の法脈の中で修行した。義海は一時、南都の法相学を学んだものの、比叡山延暦寺に入山し、師資相承に励んだ。やがて権律師にすすみ、承平六年(九三六)春に朱雀天皇の体調不良の際に祈祷を行い回復させ、律師となり沙(砂)金千両を賜った。そして天慶三年(九四〇)春に天台座主に任ぜられたのが七十歳のときで、同年冬には権大僧部にすすんだ。ところが義海が就任した前年に承平・天慶の乱が勃発している。
天慶二年(九三九)に東国で反乱を起こした平将門は、常陸・上野・下野国国府を占拠し、みずから新皇と称して勢威をふるったが翌年に滅ぼされている。いっぽうこれより早く西国では藤原純友が反乱の火の手を上げた。純友は瀬戸内海の海上交通の要路で略奪をかさね、伊予・讃岐の国府を襲撃、やがて大宰府まで迫った。しかし、博多津で撃破され伊予に逃げ帰るが、天慶四年の暮れには鎮圧される。この、ほぼ時を同じくして東国と西国から起こった反乱の火の手は朝廷を震撼させ、地方武士の勃興と貴族政治の衰退を示すものだった。朝廷は全国の社寺に反乱鎮圧の祈祷を命じている(注18)。
まず天慶三年二月に験者で知られた明達律師は護法神日吉社で宣旨をこうむり、成就の際に日吉根本塔を建立している。義海も天台座主として天慶四年五月、比叡山で伴僧十口を従え、大威徳法をもって朝敵調伏を祈祷した。(青連院本『座主記』)。そして同年(九四二)三月五日、日吉根本塔の導師を勤めている。同九年五月六日、義海は内裏中宮において御修法中に病をえて四日後の五月十日、入滅している。七十六歳、座主として治山六年であった。
王権・国家の祈請対象が限定されてゆく現象には公祭化が大きな意味を持っている。平安期に公祭の説定された神社には、大別して一.皇城守護神(と位置付けられた神社)、二.天皇外戚氏神、三.天皇・貴族が私的に信仰した神社、の三種類がある。これらに奉献(ほうけん、社寺、貴人などに、物をたてまつること)される幣帛(へいはく、神道の祭祀において神に奉献する、神饌以外のものの)は多く内蔵寮の供出であり、神祇官祭祀の幣帛が大蔵省供出であることと対照的である。勅使発遣における天皇の臨御、内侍の奉仕がみられる点にも、内延的性格が濃厚にあらわれている。今回は平安祭祀と関連している二.についてみていく。
平安祭祀制の特徴である国政と連動した祭祀の内延化を最も端的に示すのが、ここで扱う神社・氏族祭祀の位置づけである。『春日社私記』自体は、神護景雲二年(七六八)創祀にこだわってこのことを否定しているが、福山敏夫氏以来その信憑性は疑われていない(注19)。『新抄格勅符抄』(しんしょうきゃくちょくふしょう)によれば、天平神護元年(七六五)に鹿島神宮より神封二十戸が分割されており、すでに春日社の機構が整備されつつあったと分かる。『後紀』延暦二十四年(八〇五)二月庚戌条には「春日祭使」がみえ、左大臣藤原永手・神衹伯大中臣清麻呂のもと、公祭として決められたものと想定される。春日祭条によると斎行は二・十一月の上申日で、陰陽寮による祓い執行日の勘申、神祇官による準備、大臣以下官人の参候など、国家祭司としての様相を帯びている。内侍の参加、内臓頭(くらがしら)や中宮東宮の執幣など内延的要素も認められる一方、氏族祭祀的性質は希薄で藤氏長者に重要な役割は与えられていない。斎女の奉仕が特徴的だが、これは貞観年間(八五九~八七六)、藤原良房によって整備されたものと考えられている。
斉衝四年(八五七)に太政大臣に昇った良房は、外戚としての藤原氏の立場を確立する為、春日祭のほか大原野祭・牧岡祭など、多くの氏族祭祀を公的奉幣の対象に組み入れていった。大原野神社は、長岡・平安遷都に伴って春日神を分霊、新たな氏族祭祀の祭場として設定されたが、公祭化は良房の支持によるものだろう。『日本文徳天皇実録』(にほんもんとくてんのうじつろく)仁寿元年(八七二)二月乙卯(つちのとう)条には、梅宮祭に準じて大原野祭を制するとある(注20)。岡田荘司氏はこれについて、外戚である橘氏の梅宮祭に準拠し、同じく外戚である藤原氏のあり方を安定させる意図があったと推定している。梅宮祭の公祭化は仁明天母・文徳祖母の橘嘉智子に因んだもので、貞観一二年(八七三)の初見以来、現天皇との血縁的親疎に基づき停廃を繰り返すが、一条朝の寛和年間(九八五~九八六)には年中行事とされるに至った。内侍の奉仕、神饌の供進がみられるが、『儀式』に載せる大原野祭の次第は、やはり春日祭のそれに近い。天皇中宮東宮の奉幣が中心で、内侍の参加、斉女の奉仕も認められ、仁寿期の春日祭の構成を踏襲しているものと考えられる。牧岡(平岡)祭は藤原・中臣氏の祖先神牧岡社の公祭であるが、『日本三代実録』(にほんさんだいじつろく)貞観七年一二月十七日甲子条に「河内国平岡神四前、准二春日大原野一、春冬二祭奉幣、永以為レ例」(注21)と初めて見る。歴代天皇という政治的一系性に基づく荷前常幣、血縁的に遠い先皇陵より外祖父母墓を重視する事との相違は、幣帛(へいはく、神道の祭祀において神に奉献する、神饌以外のものの)の供出母体も含め、そのまま律令神祇官祭祀と平安期公祭の相違に重なる。北康弘(きたやすひろ)氏によれば、良房には天皇家藤原氏との関係を天智・鎌足になぞらえて正当化しようとした形跡もうかがえるという。良房以降もこの方式に従って、南家の氏神祭祀である率川祭(いさがわまつり)、北家魚名流(ほっけうおなりゅう)の吉田祭などが遣使奉幣の対象となっている。もちろん藤原氏系だけでなく、良房の活躍した文徳・清和朝(八五〇~八七六)にも、飛鳥戸部の社本祭や当麻氏の当麻祭、その後も宮道氏による山科祭などの例がある。かかる祭祀の政治的利用はすでに嵯峨朝(八〇九~八二三)より確認できる。平安京を遠く離れた常陸国に鎮座する鹿島神宮は、藤原・中臣両氏の氏神として重要視され、年中恒例の鹿島祭使が派遣された。『続後紀』承和十二年(八四五)七月丁卯条に初見、藤原冬嗣太政官の中心として活躍した弘仁~天長年間(八〇一~八三三)、公祭化が進められたとみられる。『延喜式』(えんぎしき)内臓寮、鹿島香取祭条によれば、祭使は藤原氏の六位以下一名、寮史生一名からなり、二月上申の春日祭当日に発遣される。『西宮』『北山沙』では、祭使藤原氏勧学院の学生から選定されることになっているが、同院も冬嗣が創設したものであった。
東大寺要録』巻十(とうだいじようろくまきのじゅう)に

寛平四年(八九二)三月二十二日勅して「五畿内七道の諸国に於ける各々の国分定額寺にて三箇日般若経を転読し并に境内の神祇に幣を奉り疫癘(えきれい)を鎮謝せしむ」(注22)

とあるから、この時代までにはすでに全国の大寺に鎮守の神が祭祠されていた。また、神の為の読経も盛んであった。神宮寺も多く造られ神願寺もしばしば建てられた。第一に挙げるべきは京都の高尾山神願寺であろう。『弘法大師全集和本第十五』(こうぼうだいしぜんしゅうわほん)掲載されている官符等編年雑集の中に「応に(まさに)高雄寺をもって定額とし並に得度の経業等の事」(注23)と題される天長元年(八二四)九月二十七日の官符(太政官から八省・諸国に命令を下した公文書)がある。
日本後紀』巻八には、清麻呂大宰府に詣で神意を受けたとき


いま大神の教うる所は国家の大事である。託宣信じ難く、願わくは神異を示し給え
神は忽然と形を現じその長三丈ばかり、色満月の如く、託宣して云、我国家には君臣の分定っている。然も(しかも)道鏡は悖逆無道にして神器を望む。是をもっと神霊は震怒し其祈を聴さず。汝帰って吾言の如く奏せよ。天つ日嗣必ず皇緒を立てよ。汝道鏡の怒を懼るる勿かれ(なかれ)。吾必ず相済わん。(注24)


と告げた。 まさに清麻呂の忠誠がこのような神験となったので、高雄山建立の由来も知られる。その「自滅の当り難きを歎じて仏力の加護を迎え」とあることに注意しなくてはならない。