pboyの雑事記

私P boyの興味をもったことが書かれています。

死の瞬間の5段階のプロセス

エリザベス・キューブラー=ロスが『死ぬ瞬間』の中で発表したもの。以下のように纏められている。すべての患者がこのような経過をたどるわけではないとも書いている。
否認・隔離 自分が死ぬということは嘘ではないのかと疑う段階である。
怒り・なぜ自分が死ななければならないのかという怒りを周囲に向ける段階である。
取引・なんとか死なずにすむように取引をしようと試みる段階である。何かにすがろうという心理状態である。
抑うつ・なにもできなくなる段階である。
受容・最終的に自分が死に行くことを受け入れる段階である。

死の受容のプロセス
キューブラー=ロスは200人の死にゆく患者との対話の中で以下の5つの死の受容のプロセスがあることを発見した。ただし、すべての患者が同様の経過をたどるわけではないとしている。

第1段階 「否認」
患者は大きな衝撃を受け、自分が死ぬということはないはずだと否認する段階。
「仮にそうだとしても、特効薬が発明されて自分は助かるのではないか」といった
部分的否認の形をとる場合もある。
第2段階 「怒り」
なぜ自分がこんな目に遭うのか、死ななければならないのかという怒りを
周囲に向ける段階。
第3段階 「取引」
延命への取引である。「悪いところはすべて改めるので何とか命だけは助けてほしい」あるいは「もう数ヶ月生かしてくれればどんなことでもする」などと死なずにすむように取引を試みる。神(絶対的なもの)にすがろうとする状態。
第4段階 「抑うつ
取引が無駄と認識し、運命に対し無力さを感じ、失望し、ひどい抑うつに襲われなにもできなくなる段階。すべてに絶望を感じ、間歇的に「部分的悲嘆」のプロセスへと移行する。
第5段階 「受容」
部分的悲嘆のプロセスと並行し、死を受容する最終段階へ入っていく。最終的に自分が死に行くことを受け入れるが、同時に一縷の希望も捨てきれない場合もある。受容段階の後半には、突然すべてを悟った解脱の境地が現れる。希望ともきっぱりと別れを告げ、安らかに死を受け入れる。「デカセクシス(Decathexis)」とキューブラー=ロスが呼んだ状態である。この状態で最期の言葉を残すことが多い(例:ゲーテ「もっと光を」、夏目漱石「もう泣いてもいいよ」)。

釈尊の言いたかったこと

ここでは釈尊、 つまり迦様の教えの中で私が重要と考え、釈尊が一番広めたかったことについてまとめていく。 私が釈尊の多くの教えの中で特に重要だと考えたのは四苦八苦、四諦、八正道、である。この3つを選んだ理由としては
四苦八苦は元は仏教の言葉だが現在の日本に定着している点に注目しているからである。四諦と八正道は釈尊の最初の教えでありもっとも言いたいことが詰まっていたのだろうと考察したからだ。
 まずは四苦八苦について考察する。この言葉は釈尊が出家の決意をした
四門出遊の際にくぐった4つの門、生老病死の四苦と怨憎会苦、愛別離苦
求不得苦、五種蘊苦を加えたもので、物事は望んだとおりにならないという
意味である。仏教における「苦」とはただの苦しい、という意味ではなく思い通りにならない、という意味を的確に表した言葉である。
その思い通りにならない、という苦しみは四諦の中の一つ、人生は苦であるという現実認識でありという苦諦につながる。四諦には苦諦のほかに、現実である苦の原因は煩悩、または渇愛となる集諦、煩悩をなくせば涅槃に行けるという
滅諦、そして涅槃へ至るための具体的手段である道諦の四つでできている。
道諦の具体的な意味は八正道にも関連する。
 八正道とは正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の八つで構成されている。
まず、一つ目の正見とは正しい見解という意味である。正しい思想、正しいものの見方、又は、正しい考え方といいかえてもいい。「正しい」とは執着や偏見がなく四諦や縁起を理解していて、これに基づいていることを指す。
二つ目の正思惟とは正しい考えという意味を持つ。上記の正見にのっとった
思惟、意志持つことである。具体的には、①悟りに対する思惟(出離覚)②怒りのない穏やかな思惟(無恚覚)③生き物を害さない慈しみの思惟(不害覚)の三つをまとめた三善覚を持つということである。
 三つ目、正語とは正しい言葉のことである。正見にのっとった言葉を語ることである。嘘を言わない、人々の仲を裂くことを言わない、粗暴な言葉を言わないなどを守る、という教えである。
 四つ目は正業、正しい行為である。正見にのっとった行為を行うこと。
殺生、盗み、愛欲に身を任せる、といったことを戒めている。
 五つめは正命、意味は正しい生活である。正見にのっとった生活。
出家者であれば布施や供養によって生きるこつじきなどの生活を指している。
六つめは正精進、正しい努力である。正見にのっとった努力とは生まれていない悪は生まれないようにし、もし生まれてしまったら捨てる。まだ行っていない努力は実践し、行っている努力は継続しより大きくなるようにする、という意味である。
七つ目は正念、意味は正しい思念。正見にのっとった思念。常に仏の教えを胸に秘め忘れないことを意味する。すべての存在に対する貪りや憂いから離れる。
最後である八つ目は正定。正しい禅定である。正見に基づいた禅定、瞑想である。諸欲から離れ、心身を統一することが要である。
 以上紙面の都合上、まとめることに限界があったが、これが今現在の私にできる精一杯のレポートである。不十分な点が数多いがこの課題を通して改めて釈尊の教えを理解することができた。

プレイボーイの光源氏

世の中には「プレイボーイ」と呼ばれる男性たちがいる。 極端になると、「色情魔」とも呼ばれたりする。 その「色情魔」には、「ドン・ファン型」と「カサノヴァ型」があるとされており、光源氏もこの二つのどちらかにあてはまると考えられる。
次々と女を乗り換えて遍歴を重ねる「ドン・ファン型」と、同時に何人もの女と情交を重ねる「カサノヴァ型」。 どちらが正しいプレイボーイのあり方か、なんて話をしようというわけではない。どちらもよくあるパターンである。
花から花へ、女から女へとわたり歩く「ドン・ファン型」。
ドン・ファン型」は、17世紀のスペインにいたとされる伝説上のプレイボーイで、「ドン・ファン・テノーリオ」が語源である。スペインでは、ドン・フアン・テノーリオ(Don Juan Tenorio)。フランス語ではドン・ジュアン、イタリア語ではドン・ジョヴァンニとよばれる。 伝説なので、正体は不明だが、貴族であったとされ、その生涯は放蕩児であったとも言われている。
 「ドン・ファン型」の「色情」が向けられる対象は、常に「ひとりの女性」である。その情熱は激しく、ある意味では「純粋」とも言える。しかし、その愛は、「激しさ」ゆえに破綻を迎えることも多く、「ドン・ファン型」は「愛の放浪」を重ねることになる。
 「ドン・ファン型」の「色情」は、「花と蝶」の関係にもたとえることができる。
美しい花を見つけては、その蜜を吸い尽くし、そして、次の花へと飛び移っていく。花から花へとわたり歩くように、女から女への遍歴を続ける。それが、「ドン・ファン型」と言われるプレイボーイの色情のありようである。 このタイプの彼のターゲットになると、「これでもか」というアタック攻勢を受け、その攻勢は彼の求愛に応じるまで続けられることになる。
 しかし、彼の心は、完全に彼のものになったと思った瞬間から、女性のもとを離れていきます。もうこの花からは蜜が吸えない、と判断すると、カレは後ろを振り返ることもなく、次のターゲットを求めて旅立っていくのである。
「理想の女性」を求めて女性遍歴を重ねるため、交際する相手は多いが一人の女性を愛し、彼女は理想の女性ではなかったと気づき次の女性へと移るため、交際中は女性をとても大切にするタイプである。
光源氏は最初は藤壺ただ一人に恋をしていた。しかし、義理の親子という壁は厚く、なかなか思いを遂げられない。これは前述した「ドン・ファン型」のプレイボーイといえるだろう。
しかし、密通を行い、藤壺が妊娠をしてしまう。「ドン・ファン型」の特徴の一つである
次の女性に興味が移り、これまでの女性を捨てるということを光源氏は行っていない。
これは藤壺に対してだけでなく、光源氏と交際した女性全員を光源氏は面倒をみている。
この点をもって私は、光源氏は「ドン・ファン型」のプレイボーイとは言い難いと考える。
手当たり次第に女を口説く、愛の狩人「カサノヴァ型」
 語源であるイタリア・ベネチア出身の作家ジャコモ・カサノヴァは、1725年、ヴェネツィアに生まれ、73歳で亡くなった実在の人物で、女優であった母親と劇場のオーナーであった貴族との間の「婚外子」であったとされています。女性遍歴で有名。自伝『我が生涯の物語』によると、生涯1000人以上の女性と関係を持ち、同性愛の側面もあったとされている。同時に複数の女性と関係を持ち、不特定多数を相手に口説き口説かれるタイプ。
 生みの父である貴族、ミケーレ・グリマーニの援助を受けて寄宿学校で英才教育を受けたジャコモは、早くも11歳のときに、学校の教師の妹にオーガズムを教えられます。ヴェネツィアへ戻って、教会の聖職者となったジャコモは、老評議員マリピエロに社交界での手ほどきを受け、手当たり次第に女性に手を出すようになり、教会の仕事をふいにしてしまう。以後のカサノヴァは、スキャンダルを起こしては都市を追放される、という人生を繰り返すが、一度親交を持った女性とは、激愛の時期が終わっても、長く親交関係を維持した。
 不特定多数の相手と性的な快楽を追及しようとするタイプ。「カサノヴァ型」の「色情」の特徴は、「同時に何人もの女性」と関係を持つこの「多淫性」にある、と言ってもいいだろう。ひと言で言うと、「気が多い」ということである。気は多いけれど、情交を持った相手には、相手の官能を優先して、とことん歓ばせるというやさしい一面も見せます。
 同時に何人もの女性を愛せる「カサノヴァ型」。このタイプの彼の愛を受け入れてしまうと、女性は心穏やかではいられなくなるだろう。 なにしろ彼の周りには、常に複数の女性の影が見え隠れしている。もしかしたら、「自分は遊ばれているだけなのか?」「ただ、都合のいい女なのか?」と、心を悩ませることになるかもしれない。 彼は、そんなあなたの心配をよそにつかず離れずの関係を続けようとするだろう。
 光源氏は空蝉、夕顔、明石の君、末摘花、源典侍など、数々の女性と契りを交わしてきた。これは「カサノヴァ型」のプレイボーイといっていだろう。前述した「ドン・ファン型」で挙げた例のような一部しか当てあまらないということはない。光源氏は次の女性に興味が移っても以前の女性の面倒を長く見続けた。
 以上のことから光源氏は、「カサノヴァ型」のプレイボーイであるといえる。
 総合すると光源氏の根本は「ドン・ファン型」だが、藤壺ただ一人への恋が満たされないため、藤壺に近い女性を求めて「カサノヴァ型」になったと私は考える。より詳しくいうなら「理想の一人を求めて数多くの女性と契りを交わし、理想の女性じゃなくとも今後の面倒を見る人」という「ドン・ファン型」と「カサノヴァ型」の融合と考えられる。「ドン・ファン型」と「カサノヴァ型」のどちらであるというなら私は光源氏は「カサノヴァ型」のプレイボーイであると考える

GBAとDSってすごかったですね

GBAとDSはソフトがすごく出てた気がします。

もちろん俗にいうクソゲーもあったでしょう。

しかし、神ゲーもたくさんありました。

わたしの一番の神ゲーロックマンエグゼ3ですね。

やりこみ要素もたくさんンあり、特に特定のボスを一定時間内に倒すと手に入るアイテムを求めてがんばってました。ほかにもパートナーを改造できるシステムで一点特化させようと試行錯誤してました。

腕時計のはなし

先日、父親からセイコーのクォーツの腕時計をもらいました。

しかし、父は手入れをしてなかったのか、すぐに針が止まったのでなじみの時計屋にもっていこうとしたのですがコロナで店は開いていません。

腕時計を新調しようと思っていたのですが、残念でした。

それにしてもクォーツの腕時計というのは、なんとも微妙な位置にいるものですね。

機械式のようにアンティークというわけでもなく、

電波式、ソーラー電池のような便利さもない。

そこがいい、という人もいるのでしょうね。

それがわからない私はまだまだ若造ということでしょうね。

 ちなみに世の中には腕時計のベルトにエキセントリックレザー(トカゲやワニ、サメなどから作られた珍しい革)を使ったものがあるそうで。

ちょっとほしいですね。しかし服のコーディネートというのは全体のバランスが重要です。手首はよくみられる箇所なので目立ちすぎないように。

 

荒川弘の作画力

最近YouTubeで6月12日までアルスラーン戦記の一期、二期があがっているのですが、

おもしろいですね。多くの人が言っていることですが荒川先生は筋肉質のキャラ、ひげのキャラを書くのがうまいですね。しかし、ただうまいだけではなく、書き分けもしっかりしています。アンゴラゴラス王(主人公の父親、筋肉もりもり、立派な髭のキャラ)と前作、鋼の錬金術師のシグ・カーティス(主人公の師匠の夫、こちらも筋肉もりもり、立派な髭)、この両者はそっくりなのですが、前者は厳しく、強く、頑なな人物王として描かれ、かたや後者は顔や体格は頑強ですが妻の弟子と久しぶりに会うと「大きくなったな」と頭をなでてあげる優しい人物です。やはり原作を見比べてみるとそれぞれ性格に応じた顔の違いが見えてきます。

運動嫌いな子どもを無くす取組

私は運動嫌いな子どもを無くすための取り組みは身近なところの環境を整えることだと考える。
 まずは小さいころから子どもは外で遊ばせるべきだと私は考えている。
小さいときにどのくらい外で遊ばせたかでその子が運動好きになるかが決まるといわれている。運動嫌いな子供を無くすためにはまずおこなうべきことである。
 しかし、体質や病気の関係から外で遊ぶのが難しい子供もいる。
小学校低学年の先生はこのような運動が苦手な子供を考慮すべきである。
小学校低学年にとっては先生の言葉は重い意味を持つ。水平な棒を登れるまでやらせる、なんてことはもってのほかである。
 なんにしても小学校の先生は言葉に気をつけてほしい。
そうすれば運動嫌いな子供を減らすことができるだろう。