pboyの雑事記

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一休宗純の生き様に関する私見

今回は一休宗純の生きざまに関する自由奔放さ、奇行について私見を述べていく。
 一休宗純の行動の中で一番特徴的なのが、正月に杖の頭に髑髏をつけて「ご用心、ご用心と」叫びながら練り歩き、正月を「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」と詠んだことだろう。この二つの行動には、年が明けて確かにめでたいが、
めでたいの裏には死がまた一つ近づいた、ということを表している。この時代は不安の絶えない無情な時代、死ぬことを考えてからが本当に生きている、という意味もあったのかもしれない。一休宗純自身が死を怖がっていたのだろうか。臨終の言葉にも「死にたくない」と遺したといわれる。このような人間臭く、ほかの僧侶と違ったところが民衆をひきつけた。
これには諸国を漫遊し、民衆にまぎれ禅の道を模索し、のちに民衆から生き仏、名僧とよばれるようになった。
 しかし、民衆には慕われていたが幕府やほかの寺院との関係はよくはなかった。
大きな原因としては一休宗純の奇行が大きい。当時は大徳寺だけではなく仏教全体が室町幕府の庇護を受けていた。権威を否定している一休宗純大徳寺第7世の追悼法要に襤褸の衣を着て参列したことが奇行の始まりとされる。権威を否定する理由としては、一休宗純は外出するときは朱塗りの美しい太刀をもっていた。不思議に思った人が理由を聞いてみると、一休宗純は刀を抜き木刀をみせ「最近の僧侶はこれと同じだ。見かけばかりよくて、使うときは何の役にも立たない。ただの飾りにしかならない」といいはなった。
このように、大徳寺の派閥争いで僧侶が投獄されるなどして、一休宗純は僧侶の腐敗を嘆いたという。
 上記の他にも一休宗純には奇行が多かったが、それには本人なりの理由があった。
だからといって、行為がすべて正当化されるわけではない。由来のある文書や、印可の証明書を焼いてしまうなど、後世の人に迷惑をかけることもあった。
 しかし、一休宗純の考えは素晴らしいものがある
これからも一休宗純の考えをより深く理解しようと思う。