pboyの雑事記

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第二章  神宮寺の成立と発展

神宮寺という言葉がどのような意味をもっているかについては以下のように考えられる。一つ目は石清水八幡宮宇佐八幡宮の二つが八幡宮と呼ばれており、ともに神社と寺が
同一の境内に融合して存在していたことから、このような状態の神社を表す言葉である。
二つ目は石清水八幡宮から始まり広まった制度としての宮寺制、つまり別当は妻帯することができ、別当の職を世襲する半僧半俗の制度をとる神社についても宮寺という呼び方が当てはまるだろう。
三つ目は宮寺という言葉が神宮寺、本地堂などの別称だったためこれを指す。
神宮寺の歴史の流れとしては、六世紀に仏教が日本にもたらされて以後、それまでの神祇信仰と新参の仏教は時間をかけて習合し、八世紀の奈良時代には各地に神宮寺が建立され、神前読経や神祇の為の得度などが盛んに行われるようになる。十二世紀には一つの到達点といえる本地垂思想の成立を見る。近世以前の日本の信仰は神と仏の混在した状況、いわゆる神仏習合と呼ばれるものが主流だった。そしてそれを建築として端的に表すものは神宮寺であろう。神宮寺に関する記述のうち古いものは、天智天皇の時代(六六二~六七一)の創建とされる三谷寺(みたにじ)や霊亀(れいき)元年(七一五)の創建と伝えられる気比神宮寺などがあり、神宮寺は奈良時代にはすでに存在していたことが分かる(注8,9)。正史とされているものの一つである続日本書紀に書かれた神宮寺についての最初の記事には、八幡神宮寺とは書かれててないが、八幡宇佐神宮寺には天平一〇年(七三八)に金堂、講堂を創建し、天平十三年には東三重塔、西三重塔を創建した、とある。そのため「八幡神宮」に奉ったことは同時に「八幡宇佐神宮寺」に奉ったことと同じである。これの点から神宮寺の創建は八世紀であると考えられる。このような文献上に記されている初期の神宮寺については先学より研究がなされている。それらは神と仏の関係から見た神宮寺の発生についての研究がほとんどであった。
しかし文献上の記述からは、加えて当時の神宮寺の堂舎や神社との関わり方、成立の仕方などを読みとることができる。これらはその後の神仏習合時代の神社と寺院の関係性を見ていく上で重要なことであり、神仏習合に基づく神道が教義的に完成していった中世、近世の神宮寺との違いを見ていく上でもまとめておく必要があると考える。 
まず奈良時代から平安時代にかけての文献に見られる神宮寺の記述を見るとその内容は以下のような種類に分けることができる。なお、年代によって記述の種類に偏りはなかった。
まず多く見られたのは神宮寺の成立に関することを記録したものである。これらの中には、神宮寺の縁起忌憚として書かれた物と、史書や官符に建立年が記されたことによってその成立を知ることができるものがある。
直接建築物に関係する記述としては、鹿島神宮寺、建軍(けんぐん)社神宮寺の焼亡の記事があり、特に後者については国司が修造を命じられている(注10,11)。
他に国家によっては供養、法要が行われた記録も見られる。美濃中山神宮寺では承平天慶の乱の際に、阿闍梨である明達による平将門の調伏が命じられており、国家的な祈願寺に近い特性を持っていたと考えられる。
その他の記述として伊勢多度神宮寺をめぐる争論や押領に関する記事などがある(注12)。
律令国家の祭事では災害など、事あるごとに神事と仏事が双修された。聖武天皇の時代には律令制の動揺や災害などにより、天皇は苦悩を表明し仏教的呪術によりこれを克服しようとする風潮が高まる。具体的には大仏建立であり、この際天皇は大仏鋳造の成就を宇佐の八幡神に祈願し、続く考謙天皇の時代に大仏が完成すると、八幡神が上京して、大仏を拝するという事態が起こる(注13)。こうした聖武天皇を中心とした朝廷の方針は、仏教による鎮護国家という路線であり、神祇は仏法を擁護する立場と見られていた。さらに地方では奈良時代に入り神業(かみわざ)による苦悩から逃れることを欲して仏法に帰依せんとするいわゆる「神身離脱」を宣言する神祇のために、神宮寺を建てたり、読経するといった仏法による神祇への供養が各地で行われた。この風潮は奈良時代中期より盛んになるが、その背景としては聖武天皇の時代以降の、仏教による鎮護国家という方針により、僧侶への尊信的な政策がなされ、僧侶の山林修行が隆盛することと、律令制の崩壊により私財を増やした郡司などの富豪層が新しい勧農神を求めたことなどとされる(注14)。その他八幡神八幡大菩薩、多度神を多度大菩薩というように、神に菩薩号をつけるというあり方、さらには東寺八幡宮伝存の僧形八幡蔵など、僧形の神像を制作するというあり方など、様々な形態の神仏習合奈良時代から興ってくるのである。
神宮寺建立の背景を語るならば満願について語らねばならない。まず先ほど取り上げた多度神宮寺は、延暦二十年(八〇一)の『神宮寺伽藍縁起并資材帳』によって、その存在がよく知られている。同著は特に多度神宮寺の当初形態について記す為、貴重な史料となっている。同資材帳において、天平宝字七年(七六三)多度神社の東に、満願なる僧が道場に居住しており、丈六の阿弥陀仏を造立した。あるとき多度大神が、神身を離れ三宝に帰依したいとの神託を発し、これを受けて満願は神坐山の麓を切り開き、小堂と御神像を造立した、これを多度大菩薩と称したと記す。満願の経歴を見ると天平勝元年(七四九)、すでに弱冠二十九歳で鹿島神宮寺を創建し、その後箱根にて住山三年におよび、天平宝字七年、すなわち奈良時代後期に『資材帳』に記されている多度神宮寺を創建し、このとき四十三歳とされる彼にとって多度神宮寺の創建のことは二十九歳で鹿島神宮寺を創建した経歴と実績からして、難しいことではなかったといえる。しかし、この道場なるものは厳密に言えば神宮寺そのものではなく、神宮寺の先行形態だと考えるべきだろう。同じ例は半世紀ほど遅れるが平安前期、天長のころに賀茂社の信徒百姓たちによって造られた道場が、神宮寺そのものではなく、その先行形態であったのと同じであろう(注15)。天平宝字七年に満願がつくった道場は、この段階では多度社に接近した場所というだけの私的な仏教施設にすぎない。もちろん満願は神宮寺の建築を狙っていたことは当然だが、この時点では多度社とは直接に関係はなかっただろう。ここに多度社との関わりを動機付ける事件の必然性がある。
ここでいわゆる神が仏への帰依を表明する事件が起こる。この事件は満願自身、もしくは彼の周辺から起こされた、と見ることができる。そういたきっかけや動機付けなくして厚い神祇信仰の壁は容易に打ち破れなかったであろう。いずれにしろ神託、すなわち多度大社の神意という形で、仏教への帰依が表明されたのである。そしてこれをうける形ですばやく行動を起こした満願は、小堂とともに御神像を造立して神宮寺の建立を実現する。『資材帳』によれば、約三十年ほどのきわめて短時間に堂塔・法具・経典などを整えた伽藍を完成させる。何よりも注目されるのは神祇を奉斎することを第一点として神宮寺が成立したことだろう。「小堂」と呼ばれるささやかな規模ではあるが、ここに「多度大菩薩」と称する「神御像」(かみのみかたち)をまつり、神宮寺の当初形態としたのである。こうした行き方は満願の経歴の上では、かつての鹿島神宮寺や箱根神社では見られないところである。またまつられた神像は本文では「神御像」と表記されているが、「御」は美称・尊称であるから、端的にいえば神像ということになる。
しかしこの時期の神像とは一体いかなるものであろうか。表記で見る限り「神御像」であるから神道的な彫刻だったということになる。しかし彫刻史においては八世紀中ごろにはいまだ純神像は成立してないというのが定説である。神像の具体的な造像例としては、東寺の鏡守八幡宮の三神像や薬師寺八幡神像が最古のものとされ、これらは九世紀の作である。しかしこれらも神像とはいうものの、実際は女神を除いた男神は全て僧形神である。多度神宮寺の神像は「号けて多度大菩薩と称す」とあるから、いまひとつ具体的な像容は掴み難いが菩薩形と見られる(注16)。すなわち初期神宮寺の一つである多度神宮寺は、八世紀中ごろ、菩薩形の神像をまつることによって成立したことが知りうるのである。また多度大神の姿を菩薩形で造像したことは、神を仏の姿で表したことになり、いまだ神の本体は仏であるとの明確な主張はないものの、それは明らかに本地仏の萌芽を意味しよう。しかし、神の託宣とはいえ、菩薩像を安置するには著しい飛躍がある。にもかかわらず満願が行えたのは何故であろうか。それは従来、日本において神の姿を表現する習慣を全く持たず、神を宗教美術的に描いたり造像したりする方法を知らなかった。むしろ神を表現することに抵抗があったというべきだろう。美術史上からも「神道美術」の成り立つのは中世にさしかかるころになって、神祇の本源的な、本性に根ざした純粋な神の姿を露わに表現した神像や神像図がわが国で発達しなかったのはそういうためである(注17)。
いっぽう仏教はむしろ積極的に技巧をこらして仏を造形し説法した。いわば前例のない未踏の地に、満願は仏教の伝統的手段をもって、自らの理解する神の姿を造像し、安置したのである。そして、それには事件を背景として、初めてなしえたのである。多度社側は当然反発しただろうが、未だかつて経験のないところになす術を知らず、神の託宣とあっては黙認せざるをえなかったのだろう。かくして満願独自の神観をもって多度大菩薩は安置され、神仏習合史上、画期的な第一歩を踏み出したのである。ここで問題とされるのは『資財帳』にいう「小堂」と「阿弥陀」、「道場」と「神御像」、これら両者の位置づけとその関係である。たとえば多度神宮寺の中心は、いわば本堂にあたるのは「道場」か「小堂」か、あるいはそのいずれでもないのか。これによって本尊が確定され、神宮寺の初期形態の宗教的構成と性格が明らかになる。しかし織田信長の焼打によって一切は失われており、その位置すら不明であり、今後の考古学的な所見に期待される。ともあれ、多度神宮寺におけるこうした神祇奉斎を基本にすえた一例は、神像の成立、本地仏の萌芽といった問題をはらみ、まさに神仏習合の源流に位置するのである。