pboyの雑事記

私P boyの興味をもったことが書かれています。

第一章 神仏習合の始まり

第一章
神仏習合の始まり
まずは神仏習合という言葉の定義、概要を述べておく。神仏習合という言葉は現在、日本在来の神祇信仰と仏教との融合、「仏すなわち神」とする思想、および宗教現象を示す言葉として一般的に用いられている。これらの研究は、仏教によって形成されてきた神の歴史を段階的に把握した辻善之助(つじぜんのすけ)氏の研究や、民俗学的な視野をも入れて仏教に対抗する「神道」が奈良末期から平安初期にかけて成立したと考える高取正男氏の研究が最も基準とされるべきだろう(注1、2)。神仏習合の言葉の起源は、吉田兼倶(よしだかねとも)氏が『唯一神道名法要集』(ゆいいつしんとうみょうほうようしゅう)の中で神道を三つに分類したものであり、その分類の一つである「両部習合神道」という語がそれにあたる。それが近世に入り、仏教系神道の総称として定着した。その後、略して「両部神道」または「習合神道」とも呼ばれるようになった。さらに近代以降この言葉は二つに分離され、仏教系神道(特に真言宗系)を「両部神道」、より広い神仏融合の現象を示す語として「神仏習合」と用いるようになる。
また仏教は日本の山岳信仰と密接に結びついた。日本では古来から自然そのものを神と見なしており、なかでも「山」は究極の自然であり神であった。修験道の開祖とされる役小角(えんのおづぬ)などは、従来の山岳信仰に仏教、主として体系的に請来(しょうらい、仏像・経典などを請い受けて外国から持って来ること)される以前に断片的に請来され、信仰された密教である雑密を習合させた先駆者であった。比叡山高野山に代表される日本の仏教的聖地が「山」に存在することも日本の山岳信仰に由来すると考えられる。さらに山岳信仰の要素を大いに含む修験道が強大な力を発揮することとなる。この山岳信仰と結びつくことこそが日本に宗教が定着する条件であるといわれている。仏教はそれを成し遂げたといえるだろう。そして、日本において神と仏が融合を果たすことができたのは、上述した条件のほかにも両者に共通点があるからである。酉田生好(とりたしょうこう)氏によれば、日本民族固有の原始神道大乗仏教には共に多神教、汎神教(世界のすべての事象は神の活動による現れであるとする宗教)という特徴があり、この共通性が、神仏習合の歴史を作り上げる大きな要因であった。諸神、諸仏を要する寛容性に富んだ多神教の思想は神仏それぞれを「多神の中の一神」「多仏の中の一仏」として受容することのできる包容力を備えているのだ。
近年では神道思想の形成や神社の社会的役割を重視して、神道の形成を中世以降とする考えもあるが、そのように宗教を一つの視点からだけ見て、古代における神祗の役割を軽視してはいけない(注3)。神仏習合の歴史で考察されるべき在来信仰は、決して特定の一時代に形成されたのではなく、むしろ津田左右吉(つだそうきち)氏が「神道」の語義を歴史的にとらえたように、仏教の影響を受けながら少しずつ形成され、変形されていったのであり、その多様な動きを見ていく必要がある(注4)。
このような考えで神仏関係の歴史をみていった場合、神と仏が融合していくだけではなく、
神の側から仏を分離するという真逆の作用がある。
三橋正氏は神仏の融合と分離という矛盾する現象についてを、日本人の信仰構造が確立する平安時代までに形成されたと考え、その実態を分析し、日本人の宗教意識の根底に「祭りという時間に集約される神祗信仰」が存在し、新たな宗教儀礼も、他の年中行事として個別に受容されていたから神事と仏事を併修していたこと、「祭り」の場から「死」のイメージを持つ仏教を隔離しようとする神仏隔離が働くが、伝統的な「祭り」の場から離れたところでは神仏習合的な現象が推進されたことなどを明らかにした(注5)。
日本への仏教の伝来は百済聖明王(せいめいおう)が欽明天皇に仏像、経典等を届けたという、いわゆる「仏教公伝」であるとされる。その年代は『日本書記』では欽明天皇十三年(五五二年)とし、『上宮聖徳法王帝説』(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)、『元興寺縁起并流記資材帳』(がんこうじえんぎならびにるきしざいちょう)では五三八年とするなど異なる説があり、また『日本書記』の記事に中国で長安三年(七〇三年)に漢訳された『金光明最勝王経』(こんこうみょうさいしょうおうきょう)の文章が用いられていることなどから、その信憑性は薄いといえる。内容についても曽我氏を中心とする崇仏派と物部氏中心の廃仏派の争いを強調しており物語としての色が強い。
しかし、『日本書記』において、最終的には蘇我稲目に仏像を託して拝ませることにしたということは、ある程度の真実を伝えていると考えられる(注6)。大陸から仏教が伝来したとき日本列島にはすでに土着の神々に対する祭祀システムが存在した。渡来した仏が列島の神と出会ったとき、両者はどのような形でかかわりあい、それぞれの観念や儀礼にどのような変化が生じたのか。神と仏との出会いは宗教史や思想史といった個別の学問領域の問題にとどまらず、日本人の異文化受容を考える際の好例として、これまでもさまざまな角度から考察がなされてきた。日本の神仏習合の歴史は日本の神々の神身離脱(神も輪廻の中で苦しんでいる身であり、仏法によって救われるという考え)に始まると言える。八世紀後半から九世紀前半にかけて、全国至るところでその地域の大神として信仰を集めていた神々が次々に神であることの苦しさを訴え、その苦境から脱するために仏教に帰依することを求めるようになった。そういった神々は満願禅師などを始めとする、民間を遊行する僧たちの手で仏教へ取りこまれて行った。満願はこの道の先駆者として全国を巡り、神々を仏の世界に誘っていたのである。義江彰夫(よしえあきお)氏は、これらの現象が地方から発生していることから、八世紀後半は神を背景にしてきた地方豪族が全国で支配にいきづまり、仏教にその打開の道を見出し始めた時代であったことが一つの要因であるとしている。さらに同じように打開の道の一つとして神前読経なども行なわれていた。 また神道の神を仏教における護法善神とする思想も現れ、こうして仏に奉仕する神社は「寺院鎮守社」とも呼ばれるようになる。こうした神宮寺などの建設に重要な役割を果たしていたのが雑密である(注7)。 最澄空海によって正式に密教が伝えられると、神仏習合はさらに躍進することとなる。前述した吉田兼倶(よしだかねとも)氏の「唯一神道名法要集」(ゆいいつしんとうみょうほうようしゅう)によれば、「両部習合神道」は伝教(最澄)、弘法(空海)、慈覚(円仁)、智證(ちしょう)(円珍) ら天台・真言の四大師の意図であるとしている。この四大師が実際に「両部習合の神道」を説いているのかどうかということは定かではないが、神仏習合は主に密教によって行なわれたということが、古田兼倶において既に明自であったことが伺える。
従来これらのテーマをめぐる研究は、前々から教理や思想の次元において神仏習合理論の進展を跡付けるという方法がとられてきた。日本に伝来してきた仏教は、奈良時代に入ると在来の神祇信仰と本格的なかかわりを持ち始める。この時期における神仏の習合現象としてまずあげるべきものは、煩悩を有する迷いの衆生として神をとらえた上でその救済を実現するために神宮寺を建立することだった。
その一方で奈良時代には神は仏法を守護するという護法善神説も存在した。奈良時代におけるこれら二つの神の位置づけを神仏習合の前史とすれば、本格的な習合理論の形成は、平安時代本地垂迹説の登場であった。平安時代に入ると筑前国筥崎宮(はこざきぐう)・尾張国熱田神社(あつたじんじゃ)などでは、祭神が「権現」の名で呼ばれるようになる。権現とは仏・菩薩が「権に」(かりに)神の姿をとってこの世に現れたことを意味するもので、本地垂迹という理念の事実上の成立を示すものであった。これは仏を本地仏とし、神を垂迹神とするあり方だが、この段階で神は仏の権化として現れるようになる。平安後期になると個々の神に本地仏を設定することが広く流行し、中世にはほとんどの神について具体的な本地仏が定められた。仏教者が主導するこうした仏中心の神仏一体化の流れに対し、やがて神道者の側で反発が強まり、鎌倉時代の後半から伊勢神道ではなどでは、神を仏の本地とする神本仏迹説が唱えられるのである。
このように、従来の神仏交渉史は、だれでも信仰のできる仏教の仏と、その地域に強い土着の神との結合深化の歴史として構想され、神仏習合→神宮寺→本地垂迹→神本仏本迹という図式が描かれてきたのである。中世において、上述したような信仰が深まると、本地垂迹思想として神仏習合が完成していくこととなる。