pboyの雑事記

私P boyの興味をもったことが書かれています。

クローン

今回はクローンについて肯定的に論じる。
クローン人間に関する批判や反感の多くはクローン人間に対する誤解に基づいてる。SF小説や少年漫画には人造人間やクローン人間が繰り返し登場してきた。その実現の可能性を暗示するクローン羊のドリーの誕生は特に西欧社会に大きな衝撃を与えた。
 しかし、よく言われるようにクローン人間とはせいぜい歳の離れた
一卵生双生児と大差はない。さらに現在の科学では「造る」ことはできず、
母親が「生む」しか方法がない。極論を言うと一体のアメーバーが二つに分裂する。分裂すると当然同じDNAを持つ個体が誕生する。これも異常で恐怖を与えることだろうか。
では「クローン生物」という言葉が与える恐怖とはなんだろうか。クローン羊のドリーの誕生が公表され、それまで
フィクションの話だと考えられていたクローン人間が現実的になった時、一部のマスコミが騒ぎ立てた不安とは何かの目的のために大量に複製された人間というイメージである。
クローン人間を作る、という言い方がされる。だがその使い方は正しいのだろうか。「作る」は物に対して使う言葉である。昔は奴隷という人間ではあるが、社会的な立場は人間としては扱われない存在が認められていた時代があった。基本的人権が保障されていなかった時代ならまだしも、
すべての人間に基本的人権が保障されている現代ではクローン技術を使ったとしても、その子は母親の子であり、一人の人間として人権を持つ。
 クローン人間について論じる際に問題になるのが「生まれか育ちか」という点である。環境の差が成長にどのくらい影響するか、ということである。ある映画では、ヒトラーのクローンを作ろうとする科学者が登場する。
この科学者はヒトラーが育った環境を忠実に再現するためにさまざまな
行動をする。現実でこのようなことがあった場合、はたしてこの試みは成功するのだろうか。私は成功しないだろうと考える。前述したが、
クローン人間とは一卵性双生児と大きな差はない。一組の一卵性双生児が
義務教育を終え、同じ学校に入学するだろうか、同じ会社に就職するだろうか。それらを決めるのは個人の考えであり、環境で決まることである。
 ドリー誕生の報を聞くと、いくらでも補充のできるクローン兵士やヒトラーのような独裁者を作る、という不安や恐怖を感じた人は多いのではないだろうか。しかし、多少の知識があればそのような不安や恐怖は杞憂であるとわかる。しかしそれでも「もし自分のクローンが作られたら」ということを考えるのは仕方ないことだろう。だが、それで「自分」という存在の同一性を無くしていいのだろうか。仮に自分のクローンが生まれたとする。しかしそれは生まれたばかりの赤ちゃんであり、前述したように
身体的にも精神的にも自分そっくりになるのはかなり難しいといえる。
母胎内の環境が違うということを考えると性ホルモンが正常に分泌されず、
自分とは違う性別になるかもしれない。
 ではさらに想像を膨らませてほしい。
もし身体的にも精神的にも記憶も自分と同じ完璧なクローンが生まれたら。
そのクローンは「自分」なのだろうか。
結論を言えばそれは「自分」とはいえない。
「自分」とは今こうしている「自分」以外は存在しない。
たとえば何らかの手段で互いに意思の疎通ができるとしても、意思を受ける側と送る側がいる以上、彼、または彼女は「自分」ではない。
「自分」が「自分」であるといえるのは「自分」が「自分」であると感じ、
思う、それだけがあればいいのである。
できるならもっと論じたいが私の勉強不足のためここで終わる。
参考文献
上村芳郎著「クローン人間の倫理」
株式会社みすず書房2003年1月24日発行