pboyの雑事記

私P boyの興味をもったことが書かれています。

一休宗純の生き様に関する私見

今回は一休宗純の生きざまに関する自由奔放さ、奇行について私見を述べていく。
 一休宗純の行動の中で一番特徴的なのが、正月に杖の頭に髑髏をつけて「ご用心、ご用心と」叫びながら練り歩き、正月を「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」と詠んだことだろう。この二つの行動には、年が明けて確かにめでたいが、
めでたいの裏には死がまた一つ近づいた、ということを表している。この時代は不安の絶えない無情な時代、死ぬことを考えてからが本当に生きている、という意味もあったのかもしれない。一休宗純自身が死を怖がっていたのだろうか。臨終の言葉にも「死にたくない」と遺したといわれる。このような人間臭く、ほかの僧侶と違ったところが民衆をひきつけた。
これには諸国を漫遊し、民衆にまぎれ禅の道を模索し、のちに民衆から生き仏、名僧とよばれるようになった。
 しかし、民衆には慕われていたが幕府やほかの寺院との関係はよくはなかった。
大きな原因としては一休宗純の奇行が大きい。当時は大徳寺だけではなく仏教全体が室町幕府の庇護を受けていた。権威を否定している一休宗純大徳寺第7世の追悼法要に襤褸の衣を着て参列したことが奇行の始まりとされる。権威を否定する理由としては、一休宗純は外出するときは朱塗りの美しい太刀をもっていた。不思議に思った人が理由を聞いてみると、一休宗純は刀を抜き木刀をみせ「最近の僧侶はこれと同じだ。見かけばかりよくて、使うときは何の役にも立たない。ただの飾りにしかならない」といいはなった。
このように、大徳寺の派閥争いで僧侶が投獄されるなどして、一休宗純は僧侶の腐敗を嘆いたという。
 上記の他にも一休宗純には奇行が多かったが、それには本人なりの理由があった。
だからといって、行為がすべて正当化されるわけではない。由来のある文書や、印可の証明書を焼いてしまうなど、後世の人に迷惑をかけることもあった。
 しかし、一休宗純の考えは素晴らしいものがある
これからも一休宗純の考えをより深く理解しようと思う。

脚注

注1 辻 善之助『日本仏教史』第一巻上世編、岩波書店 一九九四年
同『日本仏教史之研究』正篇上(『日本仏教史研究』第一巻)岩波書店 一九八三年
二「本地垂迹説の起源について」(初出は一九一七年)
注2 高取 正男 『神道の成立』平凡社 一九七九年
注3 黒田 俊雄『王法と仏法―中世史の構図』法蔵館 一九八三年 
(日本宗教史上の「神道」)[初出は一九八一年] 
井上寛司『日本の神社と「神道」』校倉書房 二〇〇六年
注4 津田左右吉『日本の神道』(津田左右吉全集 第九巻) 岩波書店 一九六四年 
初出は一九三九年
注5 三橋 正 『平安時代の信仰と宗教儀礼』 続群書類従完成戒 二〇〇年
第三篇 第一章「日本的信仰構造の形成―神仏関係論」
注6 岩波 雄二郎『日本書記 下』 P百三 二十六行目 株式会社岩波書店 
一九六五年 七月五日
注7 最澄空海が正式な密教(純密)を伝える前に、主に山岳修験者などに取り入れられていた、インドの初期密教に属する経典を主とする整理されていない段階の密教
注8 『日本霊異記』上 第七録
注9 『家傳』下 「藤原武知麻呂伝」(『寧礫遺文』下 文学編
注10 『大日本史料』三編三冊 P三三七
注11 『大日本史料』三編十四冊 P二百十六 
注12 『続日本紀』巻十五 「天平十五年十月辛巳条」(『新訂増補国史大系
P一七九~P二〇一
注13 河原能平『王土思想と神仏習合』 (岩波講座日本歴史)四 岩波書店 
一九七六年
高取正男『古代民衆の宗教―八世紀における神仏習合の端初―』 
(日本宗教史講座)二 三一書房 一九五九年
注14 『神宮寺伽藍縁起并資材帳』 多度神社蔵
注15 『続日本記』 
注16 村山修一著『本地垂迹』 吉川弘文館 一九七四年
注17 神像は仏像彫刻の手法を元に実現したと考えられる。松尾神宮寺の神像がこの説の根拠とされる。
注28 承平五年(九三五)六月二十八日 海賊平定の為諸社に奉幣(『日本紀略』)
注19 福山 敏男『春日神社の創立と社殿配置』同 日本建築士の研究 
桑名文星堂 一九四三年 一月
注20 黒板 勝美 編『日本文徳天皇実録』 P二十六 国史大系編集會
一九七七年九月一日
注21 吉川 圭三 『日本三代実録』 株式会社吉川弘文館 一九六一年七月一日
注22 筒井 英俊 『東大寺要録巻十』 P三七四 十行目 株式会社 国書刊行会
一九七一年 十二月十五日
注23 『弘法大師全集和本第十五』
注24 黒坂 勝美 編『日本後紀巻八』 株式会社吉川弘文館
一九三四年十一月三十日
注25 『石清水水田中家文書』延久四年 一〇七二年 九月五日 太政官
注26 日本史用語研究会 『必携日本史用語』 実教出版 二〇〇九年二月二日 四訂版

 

第5章 平安時代の社会に影響を与えた神仏習合

今までの章で述べた、平安時代神仏習合をまとめると以下のようになる。
日本に仏教が伝来した飛鳥時代には、神道と仏教は未統合であったが、奈良時代を経て平安時代になり、仏教が一般にも浸透し始めると、日本古来の宗教である神道との軋轢が生じ、そこから日本の神々を護法善神とする神仏習合思想が生まれ、寺院の中で仏(本地)の仮の姿である神(権現あるいは垂迹)を祀る神社が営まれるようになった。鎌倉時代室町時代、江戸時代では、武家の守護神である八幡神自体が「八幡大菩薩」と称されるように神仏習合によるものであったため、幕府や地方領主に保護され、祈祷寺として栄えた。
しかし、それゆえに檀家を持たなかったため、明治時代の廃仏毀釈でほとんどの寺院が神社に転向、あるいは消滅するなどし、急速に数を減らした。また、福岡県の梅岳寺のように、領主によって明治以前に改名された寺院もある。現在は、残存した寺院の住職の努力で再興されている。宮寺とその神社の関係は様々で、どちらが主体だったかなど一概には言えない。神祇のための寺院という神宮寺本来の役割を考えれば、神社なしの神宮寺はありえないため、宗教施設としては神社が中心といえる。神社がなければ神宮寺と称する必要はない。逆に寺院のための神社の場合は、鎮守社という。この場合、寺院あっての神社であり、寺院なしの鎮守社はありえないといえる。上賀茂神社のように、神社の従属下に小規模な仏堂がわずかにあり、神宮寺と称した場合もあれば、日光東照宮のように、大社だが、寺院・僧侶がその運営を完全に掌握した場合もある。根来寺のように起源は神宮寺として創建されたものの、神宮寺としての役割はほとんど消滅したと考えられる事例もある。清荒神門戸厄神高尾山薬王院のように、かつては寺院・僧侶がその運営を完全に掌握したが、明治期の神仏分離を経た現在も荒神飯縄権現といった神祇を祀る神社が中心である場合もある。
神仏習合による最初の現象は、この神宮寺の出現である。
神宮寺とは、神威の衰えた神を救い護る為に 神社の傍らにできる寺院である。神威の衰えは、疫病、災害を招くことになる。これは、地方から登場してきたという特色を持っている。 神宮寺の出現の時期は、八世紀(奈良時代)と考えられる。以後、おびただしい数となり神社のあるとこ神宮寺ありといった状態になる。
初期神宮寺創建の特色としては
一. 神の苦悩を、仏力で救い神威を発揮させる。神もまた仏法を悦び歓迎する。
二. 農耕生活の安定(風雨、五穀、疫病)がもたらされる。
三. 神宮寺創建の推進力は、地方豪族である。
四. 神宮寺創建に関係した仏教徒は、山岳修行者であり、呪法の力で神の苦悩を救う。
これは、明らかに仏から神への一方的な接近による習合であった。祝詞を読むことはもちろん、各地に神宮寺ができると神の前でお経を読む「神前読経」が盛んに行われる。神は、読経も喜ぶと考えられてきた。ところが、これとは異なる神宮寺が例外としてある。
例としてあげると宇佐八幡神宮寺(宇佐弥勒寺)と八幡比売神宮寺である。
別当寺とは、神仏習合が行われていた江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺のことである神宮寺の別名でもあるが別当という面で神宮寺の派生でもあると考えられる。別当とは、すなわち「別に当たる」であり、本来の意味は、「別に本職にあるものが他の職をも兼務する」という意味であり、「寺務を司る官職」である。神前読経など神社の祭祀を仏式で行い、その主催者を別当(社僧の長のこと)と呼んだことから、別当の居る寺を別当寺と称した。別当寺は、本地垂迹説により、神社の祭神が仏の権現であるとされた神仏習合の時代に、「神社はすなわち寺である」とされ、神社の境内に僧坊が置かれて渾然一体となっていた。神仏習合の時代から明治維新に至るまでは、神社で最も権力があったのは別当であり、宮司はその下に置かれた。別当寺が置かれた背景には、戸籍制度が始まる以前の日本では、寺院の檀家帳が戸籍の役割を果たしたり、寺社領保有し、通行手形を発行するなど寺院の権勢が今よりも強かったことがあげられる。一つの村に別当寺が置かれると、別当寺が、村内の他のいくつかの神社をも管理した。神仏にかかわらず、一つの宗教施設、信仰のよりどころとして一体のものとして保護したのである。また、神道において、祭神は偶像ではない。神の拠代として、神器を奉ったり、自然の造形物を神に見立てて遥拝しているが、別当寺を置くことにより、神社の祭神を仏の権現(本地仏)とみなして、本地仏に手を合わせることで、神仏ともに崇拝することができた。別当が置かれたからといって、その神社が仏式であったということではない。宮司は神式に則った祭祀を行い、別当本地仏に対して仏式に則った勤行を行っていた。信徒は、神式での祭祀を行う一方で、仏式での勤行も行った。神仏習合の時代には普通に見られた形態である。明治時代の神仏分離令により、神道と仏教は別個の物となり、両者が渾然とした別当寺はなくなっていった。
そして平安時代後期には本地垂迹説が成立する。本地垂迹説とは、日本において仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、神仏の関係を説く思想である。日本の神々は、実は様々な仏の化身として日本に現れた存在であるとする考えである。本地垂迹は、本来天台宗において歴史を超越した永遠の釈迦と実在の釈迦を区別するために用いられた語であり、 現実世界の釈迦は、本地たる仏陀垂迹とするものであるが、 本地垂迹説は、これを日本の神仏関係に応用したものである。
日本では、仏教公伝により、古墳時代物部氏蘇我氏が対立するなど、仏教と日本古来の神々への信仰との間には隔たりがあった。だが長い時間がたつにつれ、それはなくなり、仏教側の解釈では、神は迷える衆生の一種であると考え、仏自体が積極的に神の世界に侵入して仏の化身という自らを位置付けようとした。この点で決定的に心身離脱や神宮寺化の動きとは異なっていた。仏教が優位にたった上で主導して神祗の世界の全てを融合していこうとする積極的な理論なのだ。これによって仏教は世間にむけて、仏の世界が神祇の世界の上位に立つことに成功したのである。
鎌倉時代中期には、逆に仏が神の権化で、神が主で仏が従うと考える神本仏迹説も現れた。これは別名、反本地垂迹説とも呼ばれている。神道側が仏教から独立しようという考えから起こったものである。南北朝時代から室町時代には、反本地垂迹説がますます主張され、天台宗からもこれに同調する者が現れ、数々の著作をもってこの説を支持した。吉田兼倶は、これらを受けて『唯一神道名法要集』(ゆいいつしんとうみょうほうようしゅう)を著して、この説を大成させた。しかし鎌倉期の新仏教はこれまで通り、本地垂迹説を支持した。

第四章 本地垂迹説の成立

第四章が中世の話になっているが平安期の問題とどう関連するかを明確にしておく。
平安時代後期の十一世紀から十七世紀初めの江戸幕府の確立までが中世に入る。平安時代神仏習合となると歴史の流れという面から本地垂迹をこの章でまとめる事は必要だと考えた。本地垂迹説の始まりは、日本において仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、神仏の関係を説く思想である。日本の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現であるとする考えである。本地垂迹は、本来天台宗において『法華経』の「如来寿量品」(にょらいじゅりょうほん)における久遠実成(くおんじつじょう)の釈迦(歴史を超越した永遠の釈迦)と 始成正覚(しじょうしょうがく)の釈迦(歴史的実在としての釈迦)を区別するために用いられた語であり、 現実世界の釈迦は、本地たる仏陀垂迹とするものであるが、 本地垂迹説は、これを日本の神仏関係に応用したものである。本地とは、本来の境地やあり方のことで、垂迹とは、迹(あと)を垂れるという意味で、神仏が現れることを言う。究極の本地は、宇宙の真理そのものである法身であるとし、これを本地法身という。神は仏の垂迹衆生を救済するためこの世に現れること。垂迹神)、仏は神の本地(本来のあり方、本体、本地仏)であり、 両者は究極的には同体不可分の関係として捉えられたものである。
日本では、仏教公伝により、古墳時代物部氏蘇我氏が対立するなど、仏教と日本古来の神々への信仰との間には隔たりがあった。だが徐々にそれはなくなり、仏教側の解釈では、神は迷える衆生の一種で天部の神々と同じとし、神を仏の境涯に引き上げようと納経や度僧が行われたり、仏法の功徳を廻向されて神の身を離脱することが神託に謳われたりした。
しかし七世紀後半の天武期での天皇中心の国家体制整備に伴い、天皇氏神であった天照大神を頂点として、国造りに重用された神々が民族神へと高められた。仏教側もその神々に敬意を表して格付けを上げ、仏の説いた法を味わって仏法を守護する護法善神の仲間という解釈により、奈良時代の末期から平安時代にわたって、神に菩薩号をつけた。
日本において、神仏の関係を表すために本地垂迹説が唱えられたのは、 貞観元年(八五九)賀茂・春日両社に天台宗年分度者を申請する延暦寺僧恵亮の上表文である。 ここに「大士垂迹、或王或神」という文言があり、神祗に関して「垂迹」という語がはじめて使用され、 平安時代中期には本地垂迹説が確立されたと考えられている。
熊野権現白山権現など『権現』の神号も「仏が権(かり)に神として現ずる」の意であり、 本地垂迹説に基づく神号として十世紀前半には出現している。
平安末期には伊勢の本地が大日如来、白山の本地が十一面観音など、神社の個別の祭神の本地に具体的な仏菩薩が充当されるようになった。
王権国家完成までの仏教と神祇信仰をめぐる動きは、神宮寺のもとでの在来の神祇信仰の存続とその上に仏教に対抗して築かれたケガレ忌避観念などに示されているように、仏教が神祇信仰のすべてを飲み込んで消し去り、神々がすべて仏に仕えるという道を歩んだわけではなかった。むしろ仏教の助けを借りて神祇信仰の考えかたの共通化が進められた歴史であったといってもよい。そしてその延長上に『往生要集』が誕生した。
しかし、『往生要集』(おうじょうようしゅう)の目的はあくまで浄土信仰の本質を理解するための道を提示することにあり、そのためにケガレ忌避観念を最大限に活用したのである。いいかえれば、神祇信仰の核心をなす部分を、仏教理解の手段として徹底的に利用しようとするものであった。その延長線上に全面展開したのが、本地垂迹と『中世日本紀』である。その意味では、『往生要集』は本地垂迹と『中世日本紀』を引き出す出発点であり、またはその源泉になったということができよう。本地垂迹と『中世日本紀』は、どちらも仏教の主導による神祇信仰の抱きこみを示すものであり、神仏習合が新しい段階に入ったことを告げるものであった。そして、これは神仏習合の最終到達地点ともいえよう。ではその内実とはなにか。以下で歴史の流れを見ながら考えていく。
本地垂迹の始まりは心身離脱、そして神宮寺創建という日本の神仏習合の出発点までさかのぼる。日本在来の神々が仏教に帰依し、神の姿を残したままでその世界に入ろうとする運動なくして、これを仏教の世界から逆方向に位置付け直そうとする本地垂迹など登場するはずがない。
というわけで本地垂迹は神の側から仏に近づくのではなく仏自体が積極的に神の世界に侵入して仏の化身という自らを位置付けるというものである。この点で決定的に心身離脱や神宮寺化の動きとは異なっていた。仏教が優位にたった上で主導して神祗の世界の全てを融合していこうとする積極的な理論なのだ。そして十世紀末の『往生要集』に集約される日本浄土教の達成感こそは密教を中心とする仏教界に本地垂迹を出現させることを可能にした。これは大きな土台であった。密教に支えられた神宮寺建立や怨霊思想を踏まえ、その対極に王権の中で成長してきた神祇信仰を支えるケガレ忌避感の絶対化を意識しながら、その成果を土台として罪と贖罪と極楽往生を説いたものだったからである。
これによって仏教界は王権と世俗世界にむけて、仏の世界が神祇の世界の上位に立つことを最終的、決定的に論理化することに成功したのである。
こうして十一世紀に入るころから、本地垂迹の母体となるような仏教界の動きが顕在化する。
石清水八幡宮に伝わる一文書によれば、丹波国氷上郡内のある村の人々は早魃と疫病に苦しみ、救いを土地の神々に求めたところ、一〇二三年(治安三年)、次のような八幡台菩薩の託宣が下った。

われは是れ八幡にして、別宮に垂迹せり。しかるに住民その勤めをなさぬにより、われ、この禍難を致すところあり(注25)。

同文書は、これにしばらく先立つころに八幡がこの地に別宮を建てて垂迹したと述べているが、これはこの地での八幡の存在を主張するための虚構の可能性がある。むしろ重要なことは、続けてこの託宣に驚いた住人たちが、八幡の住まう神殿を築き、八幡大菩薩の御神像を造って祀ったところ五穀成熟し、郷土安穏となったと記していることである。この背後には、八幡神宮を喧伝する岩清水の僧侶たちの働きかけがあろう。五穀成熟と郷土安穏を願うなら八幡大菩薩をこの土地の神として垂迹させよという論理を八幡の託宣というかたちで述べさせ、人々もまたこれを受け入れて、神殿、神像の建立したことを物語っている。
また十二世紀に成立した『東大寺要録』には、伊勢神宮禰宜延平(ねぎのぶひら)の日記として実に興味深い話がある。
七四二年(天平十四年)、勅使である橘諸兄(たちばなのもろえ)が同神宮寺建立を願っているとの天皇の言葉を伝えたのに対し、しばらく後にアマテラスが示現して、次のような託宣を下したというのだ。

当朝は神国であるから神明を欽仰(きんぎょう)すべきであるが、日輪である我の本地は大日如来、つまり盧舎那仏(るしゃなぶつ)である。衆生はこの理を悟解して、仏教に帰依すべきである。

このような論理の託宣が八世紀に降りようはずはないので、この延平の日記と託宣は『東大寺要録』が編纂される少し前の時代、十一世紀後半ごろ述作されたことは、ほぼ疑いない。それにしても、十一世紀末には、伊勢のアマテラスという王権神話の中核に坐す神までが自ら大日如来の化身として垂迹したことを告げるという言説まで登場するにいたったのである。十一世紀末までに、本地垂迹はここまで成長してきていた。これ以降いわゆる院政時代から鎌倉時代にかけて、全国各地の神社を各々しかるべき諸仏・菩薩の垂迹した化身・権現とみなす運動はいっそう展開していく。平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて、全国各地で各神社の神をそれにふさわしい仏・菩薩の垂迹とみてとりこんでゆくという運動が展開された結果、鎌倉時代までに全国の名のある神社の本地は人々の共通認識へと高まっていく。それはこのころから各地の名社の本地を説明する書物が、さまざまなかたちで作られるようにあるという事実に端的にうかがうことができる。一三二四年(正中元年)、存覚の手で作られた『諸神本懐集』(しょしんほんかいしゅう)はそれをかなり体系的に記しており、これをうけて、まず、熊野権現の本地が次のように記されている。本社の証誠殿(しょうじょうでん)は阿弥陀如来、両所権現のうち、西御前(邦智社)は千手観音、中御前(速玉社)は薬師如来、五所王子(ごしょのおうじ、五所権現)のうち、若王子(にゃくおうじ)は十一面観音、禅師宮(ぜんじのみや)は地蔵菩薩、聖宮(ひじりのみや)は龍樹菩薩、児宮(ちごのみや)は如意輪観音、小守宮は聖観音。熊野末社では、一万宮(いちまんのみや)は文殊菩薩、十万宮(じゅうまんのみや)は普賢菩薩、勧請十五所は釈迦如来、飛行夜叉は不動明王、米持金剛童子(めいじこんごうどうじ)は毘沙門天とする。
続いて、大箱根三所権現については法躰は文殊菩薩、俗躰は弥勒菩薩、女躰は観音菩薩といい、三嶋大明神の本地は薬師如来とする。さらに、八幡宮の三神は阿弥陀如来観音菩薩勢至菩薩日吉社は大宮が釈迦如来、地主権現(ぢしゅごんげん)が薬師如来、聖真子(しょうしんじ)が阿弥陀如来、八王子が千手観音、客人(きゃくにん)が十一面観音、十禅師が地蔵菩薩、三宮が普賢菩薩といった具合である。また、祇園社薬師如来、稲荷社は聖如輪観自在尊、白山は十一面観音、熱田は不動明王であるという。
以上だけでも当時の人々が本地垂迹をいかに深く信じ、全国名社の本地とその効力を知ろうとする旺盛な意欲に満ちていたことが理解できよう。
こうして、本地垂迹鎌倉時代末の十四世紀初頭までに日本全土を覆い、各地の固有の神々を仏に向かわせるだけでなく、神の姿のままでさまざまな験力を持った密教の仏・菩薩・諸天・諸王たちの化身としてしまうというところに行き着いた。
とはいえ、本地垂迹では仏教の側から日本固有の神々のすべてを包摂して化身とするという点で、神宮寺化よりはるかに仏教が上位に立っていた。積極的に仏教の論理で各地の神々のエネルギーのすべてを糾合するという点で、この時代固有の性格を有していたのである。
鎌倉時代中期には、逆に仏が神の権化で、神が主で仏が従うと考える神本仏迹説も現れた。これは別名、反本地垂迹説とも呼ばれている。神道側の仏教から独立しようという考えから起こったものである。伊勢神宮外宮の神官である度会氏(わたらいし)は、神話・神事の整理や再編集により、『神道五部書』を作成、伊勢神道度会神道)の基盤を作った。伊勢神道においては、現実を肯定する本覚思想を持つ天台宗の教義が流用されて神道の理論化が試みられ、さらに空海に化託した数種類の理論書も再編され、度会行忠・家行により体系づけられた。反本地垂迹説は、元寇以後の、日本は神に守られている「神の国」であるとする神国思想のたかまりの中で、ますます発展していった(注26)。南北朝時代から室町時代には、反本地垂迹説がますます主張され、天台宗からもこれに同調する者が現れた。慈遍は『旧事本紀玄義』(くじほんぎげんぎ)や『豊葦原神風和記』(とよあしはらしんぷうわき)を著して神道に改宗し、良遍は『神代巻私見聞』(かみよのまきしけんぶん)や『天地麗気記聞書』(てんちれいききぶんしょ)を著し、この説を支持した。吉田兼倶は、これらを受けて『唯一神道名法要集』(ゆいいつしんとうみょうほうようしゅう)を著して、この説を大成させた。しかし鎌倉期の新仏教はこれまで通り、本地垂迹説を支持した。
神と仏の出会いから本地垂迹に至るまでの古代・中世以降の神仏習合に関する研究は貧弱であるとされている。中世後期の神道界における、反本地垂迹の形成とその位置付けをめぐる研究は一定の進展があるが、近世までを視野に入れて本地垂迹を研究したものではない。そのため現在のほとんどの研究者は、神仏習合が長く社会に定着し、明治維新神仏分離令によって分けられるまで神仏習合が続いたというイメージを持っている。
明治維新より以前においては神と仏が明確な線引きはされていなかった。しかし、その事と中世に完成した本地垂迹がそのまま明治維新まで続いたかは別である。本地垂迹の継承と変容に関した研究は少ないという。今後、そのテーマでの研究が待たれる。

第三章  平安時代の神仏習合

平安時代とは七百九十四年から千百八十五年までを指す。その平安時代中期には宇佐宮内において出家者・帰依者が存在した。系図史料にあらわれた宇佐宮神職からの最初の出家者は、宇佐氏出身の義海である。宇佐氏は大宮司職にあり、大尾社を創建した池守の家系である。
『到津系図』(とうつけいず)にあらわれるもっとも古い僧であり、天台僧として極位をきわめた人物がいきなり出現する。宗祖伝教大師は唐への渡海に先立ち宇佐宮へ参詣している。その一四〇年後に宇佐出身の僧が天台座主として登りつめたのである。『天台座主記』(てんだいざすき)では「十四世権津師 山本座主 治山六年 豊前国人宇佐氏」と記す。出自が宇佐宮社家であることは、比叡山ではむろん周知のことであった。義海は貞観一二年(八七〇)に大宮司宇の三男として誕生。詳細は不明ながら、おそらく幼年のころから比叡山かいずれかに入寺したとみられるが『天台座主記』は「年七十、﨟四十四」とあるから二十六歳で出家したことになり、一般的な僧の出家年齢からみてやや遅い感もある。『到津系図」(とうつけいず)によると、義海が比叡山で師事したのが玄昭津師で、天台密教の奥義である伝法灌頂を尊意和尚から受け弟子となり、義海の二代前の座主である玄鑑(治山三年)の弟子である。近世の史料であるが『豊鐘善鳴録』(ほうしょうぜんみょうろく)はさらに、大戒を家康から受けた後、南都に出て法相学を究め、比叡山に登ったのは延長四年(九二六)とされ、そのもとで天台密教を学んだ。そして天台の法脈の中で修行した。義海は一時、南都の法相学を学んだものの、比叡山延暦寺に入山し、師資相承に励んだ。やがて権律師にすすみ、承平六年(九三六)春に朱雀天皇の体調不良の際に祈祷を行い回復させ、律師となり沙(砂)金千両を賜った。そして天慶三年(九四〇)春に天台座主に任ぜられたのが七十歳のときで、同年冬には権大僧部にすすんだ。ところが義海が就任した前年に承平・天慶の乱が勃発している。
天慶二年(九三九)に東国で反乱を起こした平将門は、常陸・上野・下野国国府を占拠し、みずから新皇と称して勢威をふるったが翌年に滅ぼされている。いっぽうこれより早く西国では藤原純友が反乱の火の手を上げた。純友は瀬戸内海の海上交通の要路で略奪をかさね、伊予・讃岐の国府を襲撃、やがて大宰府まで迫った。しかし、博多津で撃破され伊予に逃げ帰るが、天慶四年の暮れには鎮圧される。この、ほぼ時を同じくして東国と西国から起こった反乱の火の手は朝廷を震撼させ、地方武士の勃興と貴族政治の衰退を示すものだった。朝廷は全国の社寺に反乱鎮圧の祈祷を命じている(注18)。
まず天慶三年二月に験者で知られた明達律師は護法神日吉社で宣旨をこうむり、成就の際に日吉根本塔を建立している。義海も天台座主として天慶四年五月、比叡山で伴僧十口を従え、大威徳法をもって朝敵調伏を祈祷した。(青連院本『座主記』)。そして同年(九四二)三月五日、日吉根本塔の導師を勤めている。同九年五月六日、義海は内裏中宮において御修法中に病をえて四日後の五月十日、入滅している。七十六歳、座主として治山六年であった。
王権・国家の祈請対象が限定されてゆく現象には公祭化が大きな意味を持っている。平安期に公祭の説定された神社には、大別して一.皇城守護神(と位置付けられた神社)、二.天皇外戚氏神、三.天皇・貴族が私的に信仰した神社、の三種類がある。これらに奉献(ほうけん、社寺、貴人などに、物をたてまつること)される幣帛(へいはく、神道の祭祀において神に奉献する、神饌以外のものの)は多く内蔵寮の供出であり、神祇官祭祀の幣帛が大蔵省供出であることと対照的である。勅使発遣における天皇の臨御、内侍の奉仕がみられる点にも、内延的性格が濃厚にあらわれている。今回は平安祭祀と関連している二.についてみていく。
平安祭祀制の特徴である国政と連動した祭祀の内延化を最も端的に示すのが、ここで扱う神社・氏族祭祀の位置づけである。『春日社私記』自体は、神護景雲二年(七六八)創祀にこだわってこのことを否定しているが、福山敏夫氏以来その信憑性は疑われていない(注19)。『新抄格勅符抄』(しんしょうきゃくちょくふしょう)によれば、天平神護元年(七六五)に鹿島神宮より神封二十戸が分割されており、すでに春日社の機構が整備されつつあったと分かる。『後紀』延暦二十四年(八〇五)二月庚戌条には「春日祭使」がみえ、左大臣藤原永手・神衹伯大中臣清麻呂のもと、公祭として決められたものと想定される。春日祭条によると斎行は二・十一月の上申日で、陰陽寮による祓い執行日の勘申、神祇官による準備、大臣以下官人の参候など、国家祭司としての様相を帯びている。内侍の参加、内臓頭(くらがしら)や中宮東宮の執幣など内延的要素も認められる一方、氏族祭祀的性質は希薄で藤氏長者に重要な役割は与えられていない。斎女の奉仕が特徴的だが、これは貞観年間(八五九~八七六)、藤原良房によって整備されたものと考えられている。
斉衝四年(八五七)に太政大臣に昇った良房は、外戚としての藤原氏の立場を確立する為、春日祭のほか大原野祭・牧岡祭など、多くの氏族祭祀を公的奉幣の対象に組み入れていった。大原野神社は、長岡・平安遷都に伴って春日神を分霊、新たな氏族祭祀の祭場として設定されたが、公祭化は良房の支持によるものだろう。『日本文徳天皇実録』(にほんもんとくてんのうじつろく)仁寿元年(八七二)二月乙卯(つちのとう)条には、梅宮祭に準じて大原野祭を制するとある(注20)。岡田荘司氏はこれについて、外戚である橘氏の梅宮祭に準拠し、同じく外戚である藤原氏のあり方を安定させる意図があったと推定している。梅宮祭の公祭化は仁明天母・文徳祖母の橘嘉智子に因んだもので、貞観一二年(八七三)の初見以来、現天皇との血縁的親疎に基づき停廃を繰り返すが、一条朝の寛和年間(九八五~九八六)には年中行事とされるに至った。内侍の奉仕、神饌の供進がみられるが、『儀式』に載せる大原野祭の次第は、やはり春日祭のそれに近い。天皇中宮東宮の奉幣が中心で、内侍の参加、斉女の奉仕も認められ、仁寿期の春日祭の構成を踏襲しているものと考えられる。牧岡(平岡)祭は藤原・中臣氏の祖先神牧岡社の公祭であるが、『日本三代実録』(にほんさんだいじつろく)貞観七年一二月十七日甲子条に「河内国平岡神四前、准二春日大原野一、春冬二祭奉幣、永以為レ例」(注21)と初めて見る。歴代天皇という政治的一系性に基づく荷前常幣、血縁的に遠い先皇陵より外祖父母墓を重視する事との相違は、幣帛(へいはく、神道の祭祀において神に奉献する、神饌以外のものの)の供出母体も含め、そのまま律令神祇官祭祀と平安期公祭の相違に重なる。北康弘(きたやすひろ)氏によれば、良房には天皇家藤原氏との関係を天智・鎌足になぞらえて正当化しようとした形跡もうかがえるという。良房以降もこの方式に従って、南家の氏神祭祀である率川祭(いさがわまつり)、北家魚名流(ほっけうおなりゅう)の吉田祭などが遣使奉幣の対象となっている。もちろん藤原氏系だけでなく、良房の活躍した文徳・清和朝(八五〇~八七六)にも、飛鳥戸部の社本祭や当麻氏の当麻祭、その後も宮道氏による山科祭などの例がある。かかる祭祀の政治的利用はすでに嵯峨朝(八〇九~八二三)より確認できる。平安京を遠く離れた常陸国に鎮座する鹿島神宮は、藤原・中臣両氏の氏神として重要視され、年中恒例の鹿島祭使が派遣された。『続後紀』承和十二年(八四五)七月丁卯条に初見、藤原冬嗣太政官の中心として活躍した弘仁~天長年間(八〇一~八三三)、公祭化が進められたとみられる。『延喜式』(えんぎしき)内臓寮、鹿島香取祭条によれば、祭使は藤原氏の六位以下一名、寮史生一名からなり、二月上申の春日祭当日に発遣される。『西宮』『北山沙』では、祭使藤原氏勧学院の学生から選定されることになっているが、同院も冬嗣が創設したものであった。
東大寺要録』巻十(とうだいじようろくまきのじゅう)に

寛平四年(八九二)三月二十二日勅して「五畿内七道の諸国に於ける各々の国分定額寺にて三箇日般若経を転読し并に境内の神祇に幣を奉り疫癘(えきれい)を鎮謝せしむ」(注22)

とあるから、この時代までにはすでに全国の大寺に鎮守の神が祭祠されていた。また、神の為の読経も盛んであった。神宮寺も多く造られ神願寺もしばしば建てられた。第一に挙げるべきは京都の高尾山神願寺であろう。『弘法大師全集和本第十五』(こうぼうだいしぜんしゅうわほん)掲載されている官符等編年雑集の中に「応に(まさに)高雄寺をもって定額とし並に得度の経業等の事」(注23)と題される天長元年(八二四)九月二十七日の官符(太政官から八省・諸国に命令を下した公文書)がある。
日本後紀』巻八には、清麻呂大宰府に詣で神意を受けたとき


いま大神の教うる所は国家の大事である。託宣信じ難く、願わくは神異を示し給え
神は忽然と形を現じその長三丈ばかり、色満月の如く、託宣して云、我国家には君臣の分定っている。然も(しかも)道鏡は悖逆無道にして神器を望む。是をもっと神霊は震怒し其祈を聴さず。汝帰って吾言の如く奏せよ。天つ日嗣必ず皇緒を立てよ。汝道鏡の怒を懼るる勿かれ(なかれ)。吾必ず相済わん。(注24)


と告げた。 まさに清麻呂の忠誠がこのような神験となったので、高雄山建立の由来も知られる。その「自滅の当り難きを歎じて仏力の加護を迎え」とあることに注意しなくてはならない。

 

第二章  神宮寺の成立と発展

神宮寺という言葉がどのような意味をもっているかについては以下のように考えられる。一つ目は石清水八幡宮宇佐八幡宮の二つが八幡宮と呼ばれており、ともに神社と寺が
同一の境内に融合して存在していたことから、このような状態の神社を表す言葉である。
二つ目は石清水八幡宮から始まり広まった制度としての宮寺制、つまり別当は妻帯することができ、別当の職を世襲する半僧半俗の制度をとる神社についても宮寺という呼び方が当てはまるだろう。
三つ目は宮寺という言葉が神宮寺、本地堂などの別称だったためこれを指す。
神宮寺の歴史の流れとしては、六世紀に仏教が日本にもたらされて以後、それまでの神祇信仰と新参の仏教は時間をかけて習合し、八世紀の奈良時代には各地に神宮寺が建立され、神前読経や神祇の為の得度などが盛んに行われるようになる。十二世紀には一つの到達点といえる本地垂思想の成立を見る。近世以前の日本の信仰は神と仏の混在した状況、いわゆる神仏習合と呼ばれるものが主流だった。そしてそれを建築として端的に表すものは神宮寺であろう。神宮寺に関する記述のうち古いものは、天智天皇の時代(六六二~六七一)の創建とされる三谷寺(みたにじ)や霊亀(れいき)元年(七一五)の創建と伝えられる気比神宮寺などがあり、神宮寺は奈良時代にはすでに存在していたことが分かる(注8,9)。正史とされているものの一つである続日本書紀に書かれた神宮寺についての最初の記事には、八幡神宮寺とは書かれててないが、八幡宇佐神宮寺には天平一〇年(七三八)に金堂、講堂を創建し、天平十三年には東三重塔、西三重塔を創建した、とある。そのため「八幡神宮」に奉ったことは同時に「八幡宇佐神宮寺」に奉ったことと同じである。これの点から神宮寺の創建は八世紀であると考えられる。このような文献上に記されている初期の神宮寺については先学より研究がなされている。それらは神と仏の関係から見た神宮寺の発生についての研究がほとんどであった。
しかし文献上の記述からは、加えて当時の神宮寺の堂舎や神社との関わり方、成立の仕方などを読みとることができる。これらはその後の神仏習合時代の神社と寺院の関係性を見ていく上で重要なことであり、神仏習合に基づく神道が教義的に完成していった中世、近世の神宮寺との違いを見ていく上でもまとめておく必要があると考える。 
まず奈良時代から平安時代にかけての文献に見られる神宮寺の記述を見るとその内容は以下のような種類に分けることができる。なお、年代によって記述の種類に偏りはなかった。
まず多く見られたのは神宮寺の成立に関することを記録したものである。これらの中には、神宮寺の縁起忌憚として書かれた物と、史書や官符に建立年が記されたことによってその成立を知ることができるものがある。
直接建築物に関係する記述としては、鹿島神宮寺、建軍(けんぐん)社神宮寺の焼亡の記事があり、特に後者については国司が修造を命じられている(注10,11)。
他に国家によっては供養、法要が行われた記録も見られる。美濃中山神宮寺では承平天慶の乱の際に、阿闍梨である明達による平将門の調伏が命じられており、国家的な祈願寺に近い特性を持っていたと考えられる。
その他の記述として伊勢多度神宮寺をめぐる争論や押領に関する記事などがある(注12)。
律令国家の祭事では災害など、事あるごとに神事と仏事が双修された。聖武天皇の時代には律令制の動揺や災害などにより、天皇は苦悩を表明し仏教的呪術によりこれを克服しようとする風潮が高まる。具体的には大仏建立であり、この際天皇は大仏鋳造の成就を宇佐の八幡神に祈願し、続く考謙天皇の時代に大仏が完成すると、八幡神が上京して、大仏を拝するという事態が起こる(注13)。こうした聖武天皇を中心とした朝廷の方針は、仏教による鎮護国家という路線であり、神祇は仏法を擁護する立場と見られていた。さらに地方では奈良時代に入り神業(かみわざ)による苦悩から逃れることを欲して仏法に帰依せんとするいわゆる「神身離脱」を宣言する神祇のために、神宮寺を建てたり、読経するといった仏法による神祇への供養が各地で行われた。この風潮は奈良時代中期より盛んになるが、その背景としては聖武天皇の時代以降の、仏教による鎮護国家という方針により、僧侶への尊信的な政策がなされ、僧侶の山林修行が隆盛することと、律令制の崩壊により私財を増やした郡司などの富豪層が新しい勧農神を求めたことなどとされる(注14)。その他八幡神八幡大菩薩、多度神を多度大菩薩というように、神に菩薩号をつけるというあり方、さらには東寺八幡宮伝存の僧形八幡蔵など、僧形の神像を制作するというあり方など、様々な形態の神仏習合奈良時代から興ってくるのである。
神宮寺建立の背景を語るならば満願について語らねばならない。まず先ほど取り上げた多度神宮寺は、延暦二十年(八〇一)の『神宮寺伽藍縁起并資材帳』によって、その存在がよく知られている。同著は特に多度神宮寺の当初形態について記す為、貴重な史料となっている。同資材帳において、天平宝字七年(七六三)多度神社の東に、満願なる僧が道場に居住しており、丈六の阿弥陀仏を造立した。あるとき多度大神が、神身を離れ三宝に帰依したいとの神託を発し、これを受けて満願は神坐山の麓を切り開き、小堂と御神像を造立した、これを多度大菩薩と称したと記す。満願の経歴を見ると天平勝元年(七四九)、すでに弱冠二十九歳で鹿島神宮寺を創建し、その後箱根にて住山三年におよび、天平宝字七年、すなわち奈良時代後期に『資材帳』に記されている多度神宮寺を創建し、このとき四十三歳とされる彼にとって多度神宮寺の創建のことは二十九歳で鹿島神宮寺を創建した経歴と実績からして、難しいことではなかったといえる。しかし、この道場なるものは厳密に言えば神宮寺そのものではなく、神宮寺の先行形態だと考えるべきだろう。同じ例は半世紀ほど遅れるが平安前期、天長のころに賀茂社の信徒百姓たちによって造られた道場が、神宮寺そのものではなく、その先行形態であったのと同じであろう(注15)。天平宝字七年に満願がつくった道場は、この段階では多度社に接近した場所というだけの私的な仏教施設にすぎない。もちろん満願は神宮寺の建築を狙っていたことは当然だが、この時点では多度社とは直接に関係はなかっただろう。ここに多度社との関わりを動機付ける事件の必然性がある。
ここでいわゆる神が仏への帰依を表明する事件が起こる。この事件は満願自身、もしくは彼の周辺から起こされた、と見ることができる。そういたきっかけや動機付けなくして厚い神祇信仰の壁は容易に打ち破れなかったであろう。いずれにしろ神託、すなわち多度大社の神意という形で、仏教への帰依が表明されたのである。そしてこれをうける形ですばやく行動を起こした満願は、小堂とともに御神像を造立して神宮寺の建立を実現する。『資材帳』によれば、約三十年ほどのきわめて短時間に堂塔・法具・経典などを整えた伽藍を完成させる。何よりも注目されるのは神祇を奉斎することを第一点として神宮寺が成立したことだろう。「小堂」と呼ばれるささやかな規模ではあるが、ここに「多度大菩薩」と称する「神御像」(かみのみかたち)をまつり、神宮寺の当初形態としたのである。こうした行き方は満願の経歴の上では、かつての鹿島神宮寺や箱根神社では見られないところである。またまつられた神像は本文では「神御像」と表記されているが、「御」は美称・尊称であるから、端的にいえば神像ということになる。
しかしこの時期の神像とは一体いかなるものであろうか。表記で見る限り「神御像」であるから神道的な彫刻だったということになる。しかし彫刻史においては八世紀中ごろにはいまだ純神像は成立してないというのが定説である。神像の具体的な造像例としては、東寺の鏡守八幡宮の三神像や薬師寺八幡神像が最古のものとされ、これらは九世紀の作である。しかしこれらも神像とはいうものの、実際は女神を除いた男神は全て僧形神である。多度神宮寺の神像は「号けて多度大菩薩と称す」とあるから、いまひとつ具体的な像容は掴み難いが菩薩形と見られる(注16)。すなわち初期神宮寺の一つである多度神宮寺は、八世紀中ごろ、菩薩形の神像をまつることによって成立したことが知りうるのである。また多度大神の姿を菩薩形で造像したことは、神を仏の姿で表したことになり、いまだ神の本体は仏であるとの明確な主張はないものの、それは明らかに本地仏の萌芽を意味しよう。しかし、神の託宣とはいえ、菩薩像を安置するには著しい飛躍がある。にもかかわらず満願が行えたのは何故であろうか。それは従来、日本において神の姿を表現する習慣を全く持たず、神を宗教美術的に描いたり造像したりする方法を知らなかった。むしろ神を表現することに抵抗があったというべきだろう。美術史上からも「神道美術」の成り立つのは中世にさしかかるころになって、神祇の本源的な、本性に根ざした純粋な神の姿を露わに表現した神像や神像図がわが国で発達しなかったのはそういうためである(注17)。
いっぽう仏教はむしろ積極的に技巧をこらして仏を造形し説法した。いわば前例のない未踏の地に、満願は仏教の伝統的手段をもって、自らの理解する神の姿を造像し、安置したのである。そして、それには事件を背景として、初めてなしえたのである。多度社側は当然反発しただろうが、未だかつて経験のないところになす術を知らず、神の託宣とあっては黙認せざるをえなかったのだろう。かくして満願独自の神観をもって多度大菩薩は安置され、神仏習合史上、画期的な第一歩を踏み出したのである。ここで問題とされるのは『資財帳』にいう「小堂」と「阿弥陀」、「道場」と「神御像」、これら両者の位置づけとその関係である。たとえば多度神宮寺の中心は、いわば本堂にあたるのは「道場」か「小堂」か、あるいはそのいずれでもないのか。これによって本尊が確定され、神宮寺の初期形態の宗教的構成と性格が明らかになる。しかし織田信長の焼打によって一切は失われており、その位置すら不明であり、今後の考古学的な所見に期待される。ともあれ、多度神宮寺におけるこうした神祇奉斎を基本にすえた一例は、神像の成立、本地仏の萌芽といった問題をはらみ、まさに神仏習合の源流に位置するのである。

第一章 神仏習合の始まり

第一章
神仏習合の始まり
まずは神仏習合という言葉の定義、概要を述べておく。神仏習合という言葉は現在、日本在来の神祇信仰と仏教との融合、「仏すなわち神」とする思想、および宗教現象を示す言葉として一般的に用いられている。これらの研究は、仏教によって形成されてきた神の歴史を段階的に把握した辻善之助(つじぜんのすけ)氏の研究や、民俗学的な視野をも入れて仏教に対抗する「神道」が奈良末期から平安初期にかけて成立したと考える高取正男氏の研究が最も基準とされるべきだろう(注1、2)。神仏習合の言葉の起源は、吉田兼倶(よしだかねとも)氏が『唯一神道名法要集』(ゆいいつしんとうみょうほうようしゅう)の中で神道を三つに分類したものであり、その分類の一つである「両部習合神道」という語がそれにあたる。それが近世に入り、仏教系神道の総称として定着した。その後、略して「両部神道」または「習合神道」とも呼ばれるようになった。さらに近代以降この言葉は二つに分離され、仏教系神道(特に真言宗系)を「両部神道」、より広い神仏融合の現象を示す語として「神仏習合」と用いるようになる。
また仏教は日本の山岳信仰と密接に結びついた。日本では古来から自然そのものを神と見なしており、なかでも「山」は究極の自然であり神であった。修験道の開祖とされる役小角(えんのおづぬ)などは、従来の山岳信仰に仏教、主として体系的に請来(しょうらい、仏像・経典などを請い受けて外国から持って来ること)される以前に断片的に請来され、信仰された密教である雑密を習合させた先駆者であった。比叡山高野山に代表される日本の仏教的聖地が「山」に存在することも日本の山岳信仰に由来すると考えられる。さらに山岳信仰の要素を大いに含む修験道が強大な力を発揮することとなる。この山岳信仰と結びつくことこそが日本に宗教が定着する条件であるといわれている。仏教はそれを成し遂げたといえるだろう。そして、日本において神と仏が融合を果たすことができたのは、上述した条件のほかにも両者に共通点があるからである。酉田生好(とりたしょうこう)氏によれば、日本民族固有の原始神道大乗仏教には共に多神教、汎神教(世界のすべての事象は神の活動による現れであるとする宗教)という特徴があり、この共通性が、神仏習合の歴史を作り上げる大きな要因であった。諸神、諸仏を要する寛容性に富んだ多神教の思想は神仏それぞれを「多神の中の一神」「多仏の中の一仏」として受容することのできる包容力を備えているのだ。
近年では神道思想の形成や神社の社会的役割を重視して、神道の形成を中世以降とする考えもあるが、そのように宗教を一つの視点からだけ見て、古代における神祗の役割を軽視してはいけない(注3)。神仏習合の歴史で考察されるべき在来信仰は、決して特定の一時代に形成されたのではなく、むしろ津田左右吉(つだそうきち)氏が「神道」の語義を歴史的にとらえたように、仏教の影響を受けながら少しずつ形成され、変形されていったのであり、その多様な動きを見ていく必要がある(注4)。
このような考えで神仏関係の歴史をみていった場合、神と仏が融合していくだけではなく、
神の側から仏を分離するという真逆の作用がある。
三橋正氏は神仏の融合と分離という矛盾する現象についてを、日本人の信仰構造が確立する平安時代までに形成されたと考え、その実態を分析し、日本人の宗教意識の根底に「祭りという時間に集約される神祗信仰」が存在し、新たな宗教儀礼も、他の年中行事として個別に受容されていたから神事と仏事を併修していたこと、「祭り」の場から「死」のイメージを持つ仏教を隔離しようとする神仏隔離が働くが、伝統的な「祭り」の場から離れたところでは神仏習合的な現象が推進されたことなどを明らかにした(注5)。
日本への仏教の伝来は百済聖明王(せいめいおう)が欽明天皇に仏像、経典等を届けたという、いわゆる「仏教公伝」であるとされる。その年代は『日本書記』では欽明天皇十三年(五五二年)とし、『上宮聖徳法王帝説』(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)、『元興寺縁起并流記資材帳』(がんこうじえんぎならびにるきしざいちょう)では五三八年とするなど異なる説があり、また『日本書記』の記事に中国で長安三年(七〇三年)に漢訳された『金光明最勝王経』(こんこうみょうさいしょうおうきょう)の文章が用いられていることなどから、その信憑性は薄いといえる。内容についても曽我氏を中心とする崇仏派と物部氏中心の廃仏派の争いを強調しており物語としての色が強い。
しかし、『日本書記』において、最終的には蘇我稲目に仏像を託して拝ませることにしたということは、ある程度の真実を伝えていると考えられる(注6)。大陸から仏教が伝来したとき日本列島にはすでに土着の神々に対する祭祀システムが存在した。渡来した仏が列島の神と出会ったとき、両者はどのような形でかかわりあい、それぞれの観念や儀礼にどのような変化が生じたのか。神と仏との出会いは宗教史や思想史といった個別の学問領域の問題にとどまらず、日本人の異文化受容を考える際の好例として、これまでもさまざまな角度から考察がなされてきた。日本の神仏習合の歴史は日本の神々の神身離脱(神も輪廻の中で苦しんでいる身であり、仏法によって救われるという考え)に始まると言える。八世紀後半から九世紀前半にかけて、全国至るところでその地域の大神として信仰を集めていた神々が次々に神であることの苦しさを訴え、その苦境から脱するために仏教に帰依することを求めるようになった。そういった神々は満願禅師などを始めとする、民間を遊行する僧たちの手で仏教へ取りこまれて行った。満願はこの道の先駆者として全国を巡り、神々を仏の世界に誘っていたのである。義江彰夫(よしえあきお)氏は、これらの現象が地方から発生していることから、八世紀後半は神を背景にしてきた地方豪族が全国で支配にいきづまり、仏教にその打開の道を見出し始めた時代であったことが一つの要因であるとしている。さらに同じように打開の道の一つとして神前読経なども行なわれていた。 また神道の神を仏教における護法善神とする思想も現れ、こうして仏に奉仕する神社は「寺院鎮守社」とも呼ばれるようになる。こうした神宮寺などの建設に重要な役割を果たしていたのが雑密である(注7)。 最澄空海によって正式に密教が伝えられると、神仏習合はさらに躍進することとなる。前述した吉田兼倶(よしだかねとも)氏の「唯一神道名法要集」(ゆいいつしんとうみょうほうようしゅう)によれば、「両部習合神道」は伝教(最澄)、弘法(空海)、慈覚(円仁)、智證(ちしょう)(円珍) ら天台・真言の四大師の意図であるとしている。この四大師が実際に「両部習合の神道」を説いているのかどうかということは定かではないが、神仏習合は主に密教によって行なわれたということが、古田兼倶において既に明自であったことが伺える。
従来これらのテーマをめぐる研究は、前々から教理や思想の次元において神仏習合理論の進展を跡付けるという方法がとられてきた。日本に伝来してきた仏教は、奈良時代に入ると在来の神祇信仰と本格的なかかわりを持ち始める。この時期における神仏の習合現象としてまずあげるべきものは、煩悩を有する迷いの衆生として神をとらえた上でその救済を実現するために神宮寺を建立することだった。
その一方で奈良時代には神は仏法を守護するという護法善神説も存在した。奈良時代におけるこれら二つの神の位置づけを神仏習合の前史とすれば、本格的な習合理論の形成は、平安時代本地垂迹説の登場であった。平安時代に入ると筑前国筥崎宮(はこざきぐう)・尾張国熱田神社(あつたじんじゃ)などでは、祭神が「権現」の名で呼ばれるようになる。権現とは仏・菩薩が「権に」(かりに)神の姿をとってこの世に現れたことを意味するもので、本地垂迹という理念の事実上の成立を示すものであった。これは仏を本地仏とし、神を垂迹神とするあり方だが、この段階で神は仏の権化として現れるようになる。平安後期になると個々の神に本地仏を設定することが広く流行し、中世にはほとんどの神について具体的な本地仏が定められた。仏教者が主導するこうした仏中心の神仏一体化の流れに対し、やがて神道者の側で反発が強まり、鎌倉時代の後半から伊勢神道ではなどでは、神を仏の本地とする神本仏迹説が唱えられるのである。
このように、従来の神仏交渉史は、だれでも信仰のできる仏教の仏と、その地域に強い土着の神との結合深化の歴史として構想され、神仏習合→神宮寺→本地垂迹→神本仏本迹という図式が描かれてきたのである。中世において、上述したような信仰が深まると、本地垂迹思想として神仏習合が完成していくこととなる。